手をペシペシ叩かれて、仕方なく解放する。不格好に広がった口元をもっと見ておきたかった気がするけれど、我慢した。

「放したから話して」
『ややこしいなお前は』
「話して」
『そろそろ気付く頃かと思ってな。迎えとやらが来るまでに、どんな質問にでも答えてやるぞ。出血大サービスだ』

 猫のしたり顔というものを見たことがあるだろうか。愛らしさなんて一つも垣間見えないので、見ることはあまりお勧めしない。
 猫派が転じて犬派になりそうだ。と心の内に留めながら、私は慎重に唇を割った。

「じゃあ……あなたは何者?」
『この学校に棲みついた猫さ。主にはこのセカイの案内役を担っている。明確な名は無いが、ここ何年かで呼ばれた名は“もち丸”、“ジョン”、“ざらめ”……あと数十種類はあるが、ぜんぶ聴くか?』

 “ざらめ”——やっぱり、あのざらめに間違いないのだろう。そして、永島さんの他にもこの猫を匿っていた生徒がいると言うことだ。
 私は「結構」と首を振りながら額を抱えた。

「それで、どうして人の言葉が話せるの」
『どうしてと言われても、生まれつきだ』
「じゃあ、どうして普通の猫のふりをしてたのよ」
『それは主軸のセカイでの話か?』

 また“セカイ”だ。あまり聞き入れたくなかった単語に視線を落としながら、私は流れに任せて頷いた。

『言うならば、主軸の道理を乱さないためだな。ワタシのような猫はごまんといるが、人の言葉を話すのは皆このセカイでのみと決められている』
「……このセカイって、なんなの?」
『そこには大方勘付いていると思っていたが?』
「いいから答えて」

 ざらめは『やれやれ』と何かを口に咥えて、掛け布団に包まれた私の上にポスンッと乗る。おもむろに彼の口が開くと、咥えられていた布地の小物が布団に落ちた。

『今日の日付を答えてみろ。西暦からだぞ』
「……二〇二三年、十一月——」
『不正解だ』
「いや、まだ最後まで、」
『不正解。それがこのセカイということだ』
「……え?」
『ここは二〇一三年、十一月一日。つまり、主軸のセカイから数えてちょうど十年前にあたる』

 …………十年前……? 一体何を言っているの……?

「冗談やめてよ、そんな——」
『何を言う。辻褄が合うだろう? お前が見ていたものの違和感と、この十年前という時間がぴったり』

 猫に構わず布団から足を抜き、裸足のままカーテンを開いて保健室の中を見渡す。そして視線が求めていたカレンダーを捉えた瞬間、私は大きく息を吸った。

 “二〇一三年、十一月”

 近づいてもその暦は変わらない。どころか、先生のデスクに広がる書類やデジタル時計が “このセカイ” の時間軸を更に叩きつけてくる。どれを見ても十年前を示している。
 それに「辻褄が合う」という言葉と周りの状況もピタリと嵌まる。保健室の先生が里見先生でないことも、見知らぬはずの青年が綾崎先生の名前と面影を宿していることも、体育館が改装前の三角屋根を纏っていることも、十年前であるなら全て辻褄が合う。
 ……そうだ。体育館は十年前に起きた火事の影響で改装されて——……

「ざらめ」
『なんだ。まだあるのか』
「無いわけないでしょ」

 私にしか見えないらしい猫の元へ戻ると、勢いよく靡いた風にカーテンが揺れた。

「ねえ。私を運んでくれたのは、綾崎先生よね。このセカイでは高校生の綾崎先生よね」
『ああ。主軸ではお前の担任教師をしているアヤサキ ミチルだ』

 綾崎先生の下の名前も出身校も知らなかったけど、面影は確かにある。半信半疑のシーソーが少し左に傾いて、私は「やっぱり」と納得した。十年前からしっかり先生の口は悪かったらしい。