この季節のまま止まってしまえばいいのに。なんなら、時間も止まってしまえばいいのに——。
天高く馬肥ゆる秋。今日も青く澄み渡る、涼しげな空をうっとり眺める。
四十人の生徒を詰め込んだ狭い箱のなか、窓際の後ろから二番目というベストポジションを獲得した私は、窓枠一杯に空を駆ける鳥たちをこれまたうっとり見据えていた。
「ニぶんのルート・ナナです」
その間、歯切れよく答える同級生の声には安心感がある。廊下側の生徒から順に当てられているので、自分には当分答える順番が回ってこないという安心感だ。
板書に視線を移さなければ数字や記号にすら昇華されないその答えを、なんだか名前みたいだなぁと思いながら一羽の鳥を追う。
周りと一緒に泳いでいる、とくに変わった特徴のない鳥だ。置いていかれることもなく、器用に悠々と空を泳いでいる。
なんだかいいなぁ。漠然とそう思った。
だって、鳥は空を飛ぶことができれば個性なんて気にしなくていい。鳥になったことがあるわけではないけれど、個性至上主義が蔓延る人間のセカイよりはきっと大分マシ——人間って、認められるためには個性を出さなくちゃいけないのよ。大変でしょう?
すでに窓枠を超えて、見えなくなってしまった鳥たちに向けて偉そうに馳せてみる。同時に、あと五分で鳴ってしまう昼休み開始のチャイムを待ち遠しく思えない自分に息を吐く。……だって、あの話題になるって分かっているんだもの。
昨晩テレビでゴールデン帯に放送された、アニメーション映画の話題だ。一年前に大ヒットを博したその映画がいよいよ地上波で放映される!と昨日グループ内で盛り上がっていた。
面白いよ~、絶対観るべき!と布教する映画のファン。えっ、逆に観てなかったの?と目を丸くするアニメ信者。ダメダメ、千怜は流行りものに靡かないから、と窘めるリーダー格。
昨日、あのとき、私はなんて答えたんだっけ。
“この物語は フィクション であり、実在の人物や団体とは関係ありません”
思い返せば、映画の終盤に浮かび上がった白い文字が、青空に占められていた視界を侵食する。
前々から気になってはいたので言われた通り観賞した。たしかに、ヒットの理由が分かるくらいには面白かったけど、どうしようか。
一番好きな季節のなかでも、時間は無情に過ぎていく。授業の締めに入った先生の所作を見据えながら、一つ大きな嘆息を吐く。同時に、この後訪れる昼休みのシミュレーションを脳内で繰り広げた。
「ね、観た? 昨日のロードショー!」
お弁当を広げる前から早くも話題の端に触れたのは、熱狂的な映画ファンだ。その問いかけに待ってました!と言わんばかりに、アニメ信者が
「観た!マジやばかったぁ~!」
と恍惚に語る。言葉に具体性がなくても、彼女からは好きという気持ちがひしひしと伝わるので、ワンフレーズでも周りの女子たちは大いに共感を示した。
彼女たちの輪に自らを吸い込ませながら、なんとなく、漠然と、またあの鳥たちを羨んだ。
こんな風に堂々と。大衆が好きなものを素直に「好きだ」と言えるこの子たちには、秀でた別の特技や才能があるのだからそれで良い。
——私のような、何もない人間とは違う。
器用貧乏で何もかもが中途半端。たとえば私が鳥だとして、空を飛べることはできたとしても、その他に秀でるものは何もない。与えられたのは何事も平均値を沿う、平凡なポテンシャル。
“千怜ちゃんって存在感薄いよねぇ”
“千怜、今日来れないの? あー、まあいっか”
“正直、居てもいなくても変わらなくない?”
“ひっど。でも言えてる~”
小学生の頃、よく一緒に遊んでいた女の子たちが噂していたのを聞いて、私は自分の影の濃度をマイナスに引っ張られたような気持ちがした。うろ覚えだけど、中には面と言われた言葉もあったと思う。つまり彼女たちにとって、あれは悪口ではなく事実だった。
さらに言えば三者面談のとき、担任の先生が
“なにも言うことはありませんね”
と、さも満足げに放っていたこともよく覚えている。瞬間、影の濃度は氷点下へ陥った。しかし本人や母親に向かって堂々と言えるあたり、この先生にも悪気は微塵もなかったのだと思う。
なにも言うことはない。
目立たない。
つまらない。
居てもいなくても変わらない。
じゃあ、私が私で居る意味ってなんなの?
残念ながら素の私では、「千怜がいい」も「千怜らしさ」も誰かの中に、どこかに存在していて欲しいという願いは叶わないらしい。
特別辛い出来事があったわけでも、大きないじめに遭ったわけでもないのに、平凡な人生を歩む私は私に、漠然と失望していた。
だから今日も “繕い” という台に乗り、届かない “らしさ” へ手を伸ばしていた。
「でもなぁ。私にとっては『ミスター&ミセス スミス』が不動の一位だなぁ」
結局「面白かった」けど「一位ってほどではないかなぁ」と半端な受け答えになった昼休みの中盤。私の捻くれた感想に、百田 佳子は鼻で息を抜くようにして笑う。彼女はクラス内でも目立つグループのリーダー格的存在だった。
「つーか、それっていつの映画よ。千怜ってほんと変だよねぇ~」