「あー。察しの通り、沙藩王には、私と出会う前から、恋仲の女性がいたんだ。だけど、彼女の地位は低く、一人の女性を寵愛するには敵が多すぎた。命が脅かされる心配があって……。丁度その頃、蒼国から私との縁談話があって、王は私の体質のことを知った。絵を描く時間をたっぷり与えるから、お飾りの妃をやって欲しいと頼まれたんだよ」
「はあっ!?」

 紅琳が仰け反るほど、怒りを露わに華月が叫んだ。

「その程度の契約で、貴方は沙藩にいたのですかっ!?」
「その程度って、な。当時は私に選択肢なんてなかったんだ。蒼国にいても、私は皇帝暗殺未遂犯だ。それにお妃さん、可愛かったんだよ。護ってやりたかったんだ」
「貴方って人は」

 再び前を向いて、絵筆を持とうとした紅琳の背中に、華月がずるずると寄りかかって、座った。

「おい、華月。やめろ。着物が台無しになる」

 結構、体重を掛けてくるので、重苦しい。紅琳はすっかり前のめりになってしまった。

「貴方は悪女というより、究極のお人好しですよね」
「それは、あんただろう?」
「いいえ。私には出来ませんよ。そんなこと」
「そうかな? 私は結局、自分のことしか考えていなかった。契約の下、絵だけを描いて満足していれば良かったのに、いつのまにか、それだけじゃ、物足りなくなってしまった。沙藩王は優しい方だ。今回のことだって、私が頼んだら協力をしてくれた。……もう二度と頼る気もないけど、嬉しかったよ」
「もしかして、貴方、沙藩王のことが好きだったんですか?」
「好きだよ」
「…………」

 息を呑んだ華月の心情など分かるはずもなく、紅琳は平然と話を続けた。

「私は沙藩王と、お妃さんの二人が好きだった。ずっと三人、仲良く出来るって。でも、二人の間に子が生まれて。何でかな? 私だけ、取り残されてしまったような気がしてな」
「……紅琳」
「ほら、華月。もう良いだろう? いい加減、離れ……」
「離れません」
「何、言って。……うっ」

 一層、華月が重心を掛けてきたので、紅琳は黙るしかなかった。

「私なら、貴方をそんな気持ちにさせない。たとえ、解呪出来ても、私は貴方以外の妃はいらない。正直、女の私は、どんな妃嬪よりも美しいので、ただ綺麗なだけの女では萎えてしまうのです」
「いや、あんた……無自覚に、酷いこと言っているからな」
「田舎生活……。私も、連れて行ってくれるんですよね?」
「覚えていたのか?」

 小さく舌打ちしたのを恨んでか、華月の口調は辛辣だった。

「あの時、私、本気で泣いていたんですからね」
「……可愛いな。華月は」
「ええ。いいですよ。今はそれで。可愛いとか、放っておけないとか、そんな感情で構いません。貴方の中では、私は未熟で、皇帝といったって、まだ頼りないかもしれませんけど、でも、いつか……沙藩王より良い男になります。……だから」

 ――と、その時だった。
 必死な華月の言葉を遮って、頭上から叫声が落ちてきた。

『陛下! 紅琳ちゃん。大変よ!!』

 頭上を旋回していた大きな鳥は朔樹の声をしていた。

「人払いの意味って……」
「ああ、術師には効果ないみたいだな」

 紅琳は、華月の肩を軽く叩いてから立ち上がった。

「どうしたんだ? 朔樹。玉榮を見張ってくれてたんじゃ?」

『その玉榮が逃げちゃったのよ! どうしましょう。今、指示を出して、探しているけど、見つからなくて……』

 さすが、皇帝三代にまで取り憑いた妖怪。
 紅琳もたまに監視しに行っていたが、もっと警戒すべきだったらしい。

「不味いな。早く見つけないと。朔樹は引き続き、探索を! 私もすぐに合流するから」
『分かった』

 大鳥は空高く羽ばたいて、その場から消えた。
 こうしてはいられない。

「私も朔樹と一緒に探しに行って……。ん?」

 飛び出しかけていた紅琳の腕を、華月が掴んでいた。

「何を言っているんですか? 貴方、私の妃ですよ。勝手に後宮出たら駄目ですよね?」
「あのな、そんなこと言っている場合か?」
「行くなら、私も一緒です。当然でしょう。この事態、貴方こそ分かっているのですか?」
「分かって……!」

 ……と、そこまで言いかけて、紅琳は空を仰いだ。

(そうだった)

 華月の方が、深刻だった。

「やはり、貴方に後継ぎを生んでもらうしか」
「話が飛躍しすぎだ。華月」
「大丈夫です。紅琳。私、沢山勉強したんです。初めての貴方にも、悦んで貰えるよう、技術は保証しますから」
「そんな保証いらないよ」

 はあ……と、肩を落とし、深呼吸をしてから、紅琳は華月が掴んでいた手に自分の手を絡ませた。
 仕方ないだろう。
 紅琳も、まんざらではないのだから……。

「後宮は、女が大勢いて危ないからな」
「……紅琳」

 数瞬の沈黙。
 華月は強く手を握り返してきた。

「ああ、正直、少しだけ玉榮に感謝してしまいました。私は最低ですね」
「はっ?」

 今、華月が何を言ったのか……。
 真っ赤な顔で前を走る紅琳には聞こえなかったのだが、次の言葉だけは、やけにしっかり耳に届いてしまった。

「ねえ、紅琳。私のこと、本当は気に入っていますよね?」

 ――その後、皇帝を引っ捕まえて、後宮内を全力疾走した暴力女として、紅琳は国外にまで悪名を轟かせることになるのだが…… 。
 その時の紅琳は、知る由もなかった。

【 完 】