喜代は最初ばかりは身に覚えのない表情を浮かべていたが、やがて千代の意図を読み取れたのか、ゆるりと口角を上げた。

「あらあら……あらあらあら! なーんて慈悲深いお姉さまなの、感動のあまりに涙が出てきてしまいますわ」
「……」

 蓮華は深々と頭を下げたまま微動だにしない。千代はくすくすと笑っては、衣装箪笥に並んでいるブローチを手にとって眺めている。

「どうせ余所行きのドレスの一着も持っていないのでしょう? きっと皆様の笑いものになってしまうだろうけれど、お前のような溝鼠には一生かかってもありつけない場所。お優しいお姉さまがいらっしゃって……よかったわねえ?」

 蓮華は押し黙ったまま、床の木目を見つめた。姉たちが‟行くな‟と命じればそのとおりにせねばならないし、反対に‟行け‟というのなら、断る選択肢はないのだ。

「派手な催し物には余興が必要だもの。せいぜい芸の一つでも磨いておくことね」
「まっ、華族の中に一般庶民の溝鼠が馴染めるはずがないでしょうけれど」

 高らかな笑い声を屋敷中に響かせ、千代と喜代はこの場を去った。
 蓮華は無言で床掃除を再開する。慣れてしまった床は、念入りに磨かねばあとでとんでもない仕打ちを施されることになる。

 蓮華が雑巾を絞ると、濁った水がバケツの中に溜まってゆく。
 どれほど罵倒されようと、蔑まれようと、蓮華はここで生きるしかないのだ。



 夜会が開催される日。蓮華は美代と喜代に連れられて、ダンスホール‟カナリア‟にやってきた。帝都は陽が沈んでもなお、眩しいほどに明るかった。

 往来する自動車はどれも外国産。

 この日のために特別に仕立てたドレスや燕尾服は、見栄や欲望が絡み合う異様な光沢をみせる。

 一般庶民には決して手の届かぬ天井の世界がそこにはあった。

 蓮華は豪勢なつくりをした建物をぼう、と見上げた。幼い頃は立派なお城や綺麗な装飾品に憧れたものだが、今となっては何も思わない。煌びやかなダンスホールの輝きが、蓮華の前では灰色に見えた。

「ご覧なさい……あれ」
「まあ……よくもあのような粗末な恰好で来れたわね。どこの御令嬢かしら」

 長い間下働きをしている蓮華が余所行きのドレスなど持っているはずもなく、一着だけ所持していた着物を着るしかなかった。背丈が伸びても長く着られるように、母親がかつて仕立ててくれたものだ。

「なんだか品性にかけるわねえ。あんな庶民のような子と同じ空気を吸いたくはないのだけど」
「おそらくは華族のお嬢さんではないでしょう。さしずめ、興を生むために連れてきた下女というところですかな」
「それもそうね、芸のひとつでも見せてもらいたいものだわ」

 華族からの蓮華への目は凍てつく氷のようだった。蓮華を連れてきた当の千代と喜代は擁護する姿勢すらない。そればかりか、一緒になって蓮華をあざ笑った。蓮華をさらなる闇の底に陥れるための嫌がらせ行為であった。

 ダンスホールではさまざまな思惑がひしめき合う。優雅な楽器演奏に身をゆだね、舶来のお酒が酌み交わされる。出てくる話題といえば金や名誉のことばかりであり、互いに周囲からの見られ方ばかりを気にして本音はひとつも聞こえない。

 貴賓室に消えてゆく婚姻関係のない男女。秘密の逢瀬を見て見ぬふりをする者たち。蓮華は会場の隅に突っ立って、何をするでもなくうつむいた。そんな蓮華に指をさし、貴婦人たちは笑った。
 「芸を見せろ」と捲し立てられ、「申し訳ございません。そのようなものは持ち合わせておりません」と黙り込むと、髪を乱暴に引っ張られた。わざと足を踏む者もあった。

「少しは動じたらどうなの。叩いても蹴っても傀儡のよう」
「……本当に気味が悪い」
「まるで死人みたいね。ああ、怖い怖い」

 蓮華はその言葉にもどのように受け答えをしたらよいか、分からなかった。
 相手が機嫌を損ねたら、謝罪をするしかない。母親もずっとそのようにしていた。そうでなければ、巴家から追い出され、蓮華は路頭に迷うことになる。痛みや恐怖は、いっそ忘れた方が楽だった。