メインフロアを飛び出すと、周囲の視線は蓮華へと降り注いだ。
 それらは決して心地よいものばかりではなく、蓮華の胸にちくちくと突き刺さるような好奇や嫉妬も混ざっている。

 一人で勝手に抜け出してしまった手前、今、蓮華の隣には千桜がいない。
 いったいどれほど自分が守られていたのかを実感して、途端に心細くなった。

(しっかりしなくてはならないのに、なんて情けないのかしら)

 庭園へと向かうために身を翻した時のことだ。

「あらぁ、誰かと思えば」
「あらあらまあまあ」

 通りかかった女二人に声をかけられる。俯いていた顔を上げて、蓮華はハッと肩を震わせる。

 声をかけてきたのは、姉である千代と喜代だった。

 蓮華は顔面蒼白になり、衝撃のあまりその場で棒立ちになった。巴家で受けてきた仕打ちや、社交場で見せ物にされた記憶が蘇る。また、あの時のような扱いを受けるのかもしれないという考えが脳裏によぎった。

 千代と喜代は蓮華の身なりをじろりと一瞥する。
 千桜には胸を張れと言われたが、どうにも難しい。蓮華は、誇れるほどにはまだ何も成し遂げられていないからだ。

「馬子にも衣装とはまさにこのことかしら。ねえ、お姉さま?」
「そうね喜代さん。小鳥遊様に仕立てていただいたのかしら。まぁ羨ましいこと」

 やだやだ、と扇子で口もとを隠す千代と喜代。
 蓮華は俯いたまま黙り込んだ。

「随分と小綺麗にしていただいているのね」
「うちにいた時は、溝鼠のように汚らしかったのに。ねえ、お姉さま?」
「だめよ喜代さん。この方はなんといっても小鳥遊様の奥様になられるんですもの。失礼なことは言えないわ」
「あらあら、ごめんなさいお姉さま」

 口では謙遜をしているものの、態度は相変わらず刺々しい。
 名家である小鳥遊家の当主千桜が相手ともなると、迂闊な発言は控えなければならない。千代と喜代は互いに顔を見合わせながら、わざとらしい謙遜をする。

 だが、蓮華を見る目には嫌悪感が浮かんでいるのだ。妬み、嫉み、蔑み。蓮華は千桜のように心の色を可視できないが、目の前の二人が何を思っているのかは手に取るように分かった。

「突然の縁談ですもの。嫁ぎ先で奴隷のように扱われていないか心配していたのに、ぴんぴんしているじゃない」
「そうねお姉さま。見る限りでは、小鳥遊邸でさぞ良い暮らしをさせてもらっているみたいですわよ」
「なんの芸も持ち合わせていない出来損ないだったのに、おかしいわねぇ。いったいどんなご奉仕をしていたのかしら?」

 千代と喜代の金切り声がよく響いた。クスクスと嘲笑ってくる姉たちを前にして、蓮華は弾かれたようにはっと顔を上げる。

 奉仕などしていない。千桜のような公明正大な男がそんなものを求めたりしない。
 自分のことをどう言われようが何も響かなかったが、千代の軽薄な発言に何故かちくりと胸に違和感が残った。

「……違います」
「え? なによ」
「奉仕などしていませんし、旦那様はそのような下劣な行為を求めたりいたしません」

 これまでに一度だって千代と喜代に言い返したことはなかった。暴言も侮辱も、蓮華はなんだって受け入れた。
 だが、それが千桜にまで及ぶというのなら黙ってはいられなかったのだ。

「急に食い下がってきて、どうしたのかしら」
「そ、そうよねえ、お姉様?」

 姉たちは顔を見合わせ、不快そうに眉を顰めた。

「ふうん……へえ、そう」
「小鳥遊家相手に私たちが迂闊に手出しできないからって、随分と調子にのっているじゃないの」

 違う。そうではない。決して調子にのっているわけではない。ただ蓮華は、千桜までもが侮辱されているようで我慢ならなかっただけだ。

「お前はもうすっかり華族気分でいるようね。余計にお母様が不憫でならないわ」
「最近はお元気がないものねえ。私たちの縁談はまるで上手くいかないし、どうしてお前だけ……と思わずにはいられないけれど」

 ふん、と鼻を鳴らすと、蓮華の脇を通り過ぎる。

「せいぜい勘違いしながら生きることね」
「ごめん遊ばせ? 溝鼠のお姫様」

 黙り込む蓮華の背後から、クスクスと嘲り笑う声が聞こえてきたが、今の蓮華には気にしている余裕はない。

(とにかく今は、はやく外に)

 蓮華は人目を避けるようにして、庭園へと駆けていった。


 混沌とする館内から抜け出し、蓮華は静かな庭園で一人月を見上げる。

 賑やかな笑い声が館内から聞こえてくる。
 同じ敷地内ではあるが、人気のない静かなこの場は幾分息がしやすいような気がした。

(旦那様にあとで叱られてしまうかしら)

 千桜の了承を得ずに飛び出してしまったが、今思えば早計だったかもしれない。ああやって姉たちと遭遇して、千桜の株を下げるような真似をしてしまった。

 蓮華は月を見上げながら、鬱々とする。

 何をどうするのが正解だったのだろう。蓮華はただ、千桜の足手まといになりたくない一心だったのだ。毅然とした態度でいられればどんなによかったか。蓮華は未だ、自分自身を蔑まずにはいられない。

 ふと右手を見ると、大きな木があった。既視感があると思ったが、おそらくはあの日見た桜の木だろう。小鳥遊家の中庭に咲く狂い咲きの桜とは違い、青々とした葉っぱをつけている。蓮華はふと心寂しい気持ちになった。

(可笑しいわ。今まではちっともそうは思わなかったのに)

 常に小鳥遊家で親切な人たちに囲まれているからだ。だから、今までの感覚を忘れてしまっていた。これでよいのだ。よかったのだ。政治の知識もない蓮華があの場にいても邪魔なだけ。せめて、迷惑にならないように振舞わねば。

 蓮華が夜闇の中で一人俯いた――その時のこと。

「うううっ……ひっく、ひっく」

 子どもがすすり泣く声が聞こえる。

 蓮華はふと気になり、辺りをしきりに見回した。迷宮のごとく入り組んでいる薔薇園を進み、声の出どころを探す。

 オリーブの高木が生えている温室の前で、子どもがうずくまっている。髪の長さやドレスを着用しているあたり、女児であるとうかがえた。

「あ、あの、いかがされたのでしょうか」

 いきなり声をかけても驚かせてしまうかもしれない。ましてや、己のような陰気な女だ。

 安堵させるつもりがかえって余計な不安を招きかねない。そう思ったのだが、ほぼ無意識に声をかけてしまった。

 女児は目元を擦って、顔を上げる。

「ごめん、なさいっ……! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」

 だが、蓮華の顔を見るなり、顔を真っ青にして震えあがった。

 がくがくと足をすくませて尻もちをついている。

 せっかくのドレスに土がついて汚れてしまっている。予想もしていない反応を前にして、蓮華は狼狽した。

 なんと声をかけるべきか。いや、この子はそれを望んではいないのかもしれない。

 この時、蓮華は自身の対人能力が著しく低いことを実感した。

 おろおろしていると、女児は大粒の涙を流して再び泣き出してしまう。

「うああっ、おうちに、かえらなきゃ! できない子だから、できない子なんだ。できない子は、かえらなきゃ!」
「えっと、あの」
「苦しい、かなしい! かなしいっ、かなしいかなしい、うっ、あっ、うううっ、あぁぁぁ!」

 おそらくは華族の令嬢なのだろう。

 どうしてここまで取り乱して泣いているのかは分からなかったが、あまりに冷静さを失っている。

 このあたりには葉が尖っている木々が生えているため、万が一肌を引っ搔いてしまったら一大事だ。放っておくのはよくないと考え、さめざめと泣いている女児の前に咄嗟に腰を下ろす。

(こんな時に、いったいどのように声をかけたらよいの)

 どこか――様子が可笑しい。この社交場が嫌になったのかもしれないが、たとえ幼子ではあるとしても、異常な泣き方をしている。

 蓮華でもそれは理解できた。

 放っておけば良くない気がするのに、蓮華は己の無能さに打ちひしがれる。

 おそらくは千桜であれば、息を吐くように宥め聞かせるのだろう。

 なんと自分は非力なのだ。社交の場でも役に立たず、用事が済むのを待っていることしかできない。極めつけには、泣いている子どもをあやすのもままならないとは。

 蓮華の表情に靄がかかった。

 何か、何かないものか――と思考を巡らし、一つだけ脳裏によぎる。

 気休めにもならないかもしれないが、蓮華にできることはそれくらいであったのだ。

「――眠れぬ子よ、ねんねんころり」

 口ずさむと、亡きの母親の面影が浮かんだ。思えば、千桜とはじめて出会った時もこの子守唄を歌っていた。

「おはなのかおりで、ねんねんこ」

 瞳を閉じ、一面の花畑を想像する。野原を淡い桃色に染める蓮華の花。ちょうど今頃が見どころなのだと母親は言っていた。桜の花が終わり、暖かくなってきた頃。藤の花が咲き始めると蓮華の花も咲くのだと。

 ふわり、風が吹き付ける。

 ほんのりと甘く優しい花の香りがする。

 目を閉じて想像しているだけであるのに、不思議だ。ただ、女児の心が安らいでほしい一心で唄を口にする。ゆっくりと瞼を上げると、冷静さを取り戻し、ぽかんと口を開けている女児と目があった。

「――……すっ……ごい」
「え?」

 女児が泣き止み、ほっとしたのも束の間、蓮華は再び狼狽した。

「なんかね、お花がぶわぁっ……って! 今の、どうやったの……?」
「お花? あ、あの、それよりも」
「すっごく綺麗だった……もう一回やって!」

 何がどうなっているのか。蓮華はただ母親から教えてもらった子守唄を歌っただけだ。身に覚えのない要求になんと返すべきか逡巡する。

「ごめんなさい。あの、その」

 もう一回とは、具体的にどのようにすればよいのだろう。狼狽えていると女児は首を傾げる。先ほどまで取り乱して泣いていたとは思えないほどに、けろりとしている。

「んー……なんだあ、夢でも見てたのかなぁ……?」

 蓮華はまったくもって状況がつかめずにいたが、ひとまずは女児の表情が明るくなり安堵した。

「ご気分はいかがでしょうか?」

 怪我などはしていないか。ドレスについた土を払ってやると、少女は再びぽかんとした表情をする。

「あれ……? そういえば、なんだかすっごく悲しかったような……」
「悲しかったような?」
「すっごく暗い気持ちになって、何もかも嫌になって……でも、あれ? なんでだったんだっけ……」

 女児は、自分の中で答えが見いだせずに眉をひそめている。蓮華もまた胸に得体の知れぬしこりが残った。

(どうして覚えていないのかしら)

 泣き喚いていた時と今の表情が、まるで別人のようにも思える。これでよかったのか。たかだか子守唄ではあったが、気が紛れたのであれば甲斐があったというものだ。土を払って立ち上がった女児は、きょろきょろと周囲を見回す。

「そういえば、なんでこんなところに」
「え……?」
「お母様とお父様と一緒に、綺麗なお部屋の中でクッキーを食べてたの。なのに、なんでお外にいるんだろう……うーん」

 女児の発言は先ほどから現実味を帯びていない。信じがたい内容ではあるが、女児が嘘をついているようにも思えなかった。

 千桜がこの場にいたのなら、適格な判断を下せたのだろう。このあとになんと問いかければよいのかと悩まずに済むのだろう。

「……あ、お母様とお父様だ!」

 すると、女児の表情がぱああと明るくなった。蓮華のもとを立ち去る小さな背中をぼんやりと見つめる。

 女児には、父と母がいる。帰る場所がある。蓮華にも実父はいるが、絶縁されているも同然であり、義母には疎まれている。実母は自決をしていたため、すがる場所などなかった。

 ――これが、羨ましいという感情か。

 蓮華の頭上に月光が差し込んだ、刹那のこと。

「こんばんは――麗しいお嬢さん」

 もう誰もいないはずの庭園で、静かな声が響いた。