土曜日の夜二十時を回った頃、蓮華は姿鏡の前に立ち、しきりにそわそわしていた。

「に、似合っていないのではないでしょうか」
「そんなことはございませんって! とてもお綺麗ですよぉ~!」

 蓮華の訴えを、はな子はおおざっぱに笑いとばした。笑いごとではない。蓮華にとっては死活問題であったが、はな子は楽天的であった。背後から姿鏡をのぞき込むと、きゃっきゃとはしゃいで両手を合わせている。

 蓮華は鬱々とした気持ちで姿鏡へと視線を向けた。肩回りがざっくりと開いている紅色のドレス。

 後ろで一つにまとめられている髪。はな子に施してもらった化粧。普段はこのような恰好をしない蓮華にとって違和感でしかなかった。

「で、でも、せめてもう少し首回りがつまったものなど……」
「何をおっしゃっているんですか! 今はそのくらい大胆なドレスが流行りなんです」
「あ、あの、ですが旦那様はきっと、あまりこういうものはお好きでないのでは……」

 だからといって、ダンスホール‟カナリア″に時代遅れな着物姿で向かうわけにはいかない。

 千桜の指示があり、家令とはな子が業者を呼びつけ、ドレスの採寸を行ったところまではよかった。デザインを決める段階で、とくに希望がなかった蓮華はそれに混ざらず、家令とはな子に一任をしたのだ。

 仕上がったドレスは極上だった。だが、蓮華からすると華やかすぎる。

 肩もとが落ち着かず、空気が直接肌に触れてそわそわする。化粧も似合っていない気がする。

 髪が後ろでまとめられているせいで、みすぼらしい顔を隠せない。

 はやく支度を済ませなければ。

 千桜を待たせてしまっている。

 そう思いつつも、部屋から一歩も出られない。巴家で下女をしていた頃は波音ひとつ立てなかった蓮華の心。

 これは何の音か。心の臓が大きく打ち立てて、息が苦しい。

「きっとお喜びになります! むしろ、今の蓮華様をお嫌いだと思われる男性などいないですって!」
「で、でも」
「大丈夫大丈夫! ほら、お坊ちゃまにお披露目しましょう!」

 蓮華はあれよあれよと背中を押され、部屋の外へと連れ出された。千桜の私室の前に立つと、はな子の快活な声が響く。

「お坊ちゃま、蓮華様のご準備が整いましたよ」

 蓮華はその一声にひどく動揺した。とっさに俯き、床を見つめる。

 襖が開く音が聞こえると、蓮華の胸の音は最高潮に高鳴った。

 おそるおそる顔を上げる。真っ先に飛び込んできたのは冷たい氷のごとき瞳だ。左側に流れている前髪。

 後ろで一つにまとめられた糸のような髪。社会的威厳を示す軍服。千桜の姿をしっかりととらえると、静かに視線が絡み合った。

「あ、あの」

 蓮華ははくはくと口を開け閉めし、千桜の反応を待つ。やはり、似合っていないのではないか。切れ長の目を細めたまま、千桜は微動だにしない。

「お坊ちゃま、何か言って差し上げたらどうなんです?」
「……あ、ああ」

 ともすれば、千桜ははな子の問いかけにハッとした。軽く咳払いをしたのち、言いにくそうに視線を逸らす。

「綺麗だ。その……よく似合っている」

 蓮華は生きた心地がしなかった。先ほどまで不安で押しつぶされそうになっていたのに、今度は一転して、沸騰したように躰が熱くなる。どうしたものか。風邪などひいていないのに。

「本当でございますか? み、見苦しくはないでしょうか?」
「そのようなことはない」

 しばらく沈黙が流れる。はな子はクスクスと笑って、少し離れた場所から見守った。

「慣れない場に連れ出す形となり申し訳ないが、あまり案ずることもないだろう。ここ数日はより一層、稽古事に励んでいたそうだし、立ち振る舞いも、身のこなしも、およそ淑女のそれと等しいと思える」

 とはいえ、蓮華には終始自信がなかった。

 華族が集まるダンスホール‟カナリア″で、千桜の面子を潰さぬような振る舞いができるものなのか、と。

 もともと下女として働いていた蓮華には、教養の欠片も蓄積されていない。

 小鳥遊家で生活するようになってから、かろうじて身に付いただけのこと。専門的な質問が飛び交ったのなら、間違いなく蓮華はついてゆけないだろう。

 それだけでなく、義母や姉たちと対面をした時に、なんと罵倒されるものか。蓮華のせいで千桜の評価が下がることだけは避けたかった。

「まあ……あの場では誰の声にも、耳を貸さなくていい。いちいち聞いていては耳が腐るというものだ。私の隣で、ただ凛としていなさい」
「……耳を貸さない?」

 聞き返せば、千桜が横目を向ける。ただ隣にいるだけで本当によいのだろうか。そんなはずはない。蓮華の中で問答を繰り返した。

「旦那様に、ご無理はないのでしょうか?」
「私がか?」
「はい。その……あまりにたくさんのものが見えすぎると、ご気分を悪くされるかと」

 千桜は夜会を好まない。単に華族の付き合いに嫌気がさしているだけではなく、心の色が映るという左眼の影響も大きい。

 そのような状態であるのに、無理をして赴く必要はないだろう……というのは、浅はかすぎるか。名のある華族の当主、そして帝国陸軍の少佐としての立場も重々にある。蓮華には真似できないことだ。

「そんなもの、これまでにうんざりするほど見てきているからな」
「ですが……」
「おまえもあまり良い気はしないと思うが、とにかく、今夜は胸を張っていろ。何も恥じる必要はない」

 そんな千桜の隣に並ぶことは、どんな意味をなすのか。蓮華は、ごくりと生唾をのんだ。

 華族の中でも圧倒的な立場を誇る小鳥遊家の当主。帝都大学を首席で卒業し、士官学校で抜きんでた結果を残し、二十六歳という若さで陸軍少佐の地位を確立する。他人を寄せ付けぬ冷徹さ。舞い込む縁談もことごとく断っていたはずの千桜が、婚約者を連れている――。

 ‟恥じる必要はない‟

 そういわれても、蓮華の胸に不安は居座る。

 千桜に相応しくない人間だと思われてしまったら、立つ瀬がなくなってしまうのだ。



 帝都に構えるダンスホール‟カナリア″は、ひと際豪奢に輝く。美しく囀る愛玩鳥からと到底想像もつかぬ華やかさ。千桜のエスコートにより自動車から降りた蓮華は、いつかの夜と同様にほうと見上げてしまった。

「まあ……御覧なさい、小鳥遊様よ……!」
「あらあらあら! なんて素晴らしい夜なのかしら」

 端正な顔立ちに、すらりとした背丈を兼ね備えている千桜は、帝都の街ではよく目立つ。女たちの歓喜の声を耳にして、蓮華は肩をすくめて俯いた。やはり、蓮華のような地味な娘が隣に立ってはいけないのかもしれない。普段、屋敷で過ごしているだけの蓮華は、外の世界の現実を突きつけられた気持ちになった。

 おそらくは、蓮華の心は千桜の左眼に見透かされているのだろう。そっと差し出された右手。ゆっくりと顔を上げると、冷え切った瞳が向けられている。

「誰の言葉も信じなくていい。ただ私だけを信じていなさい」
「……はい」

 だが、かけられる言葉の一つ一つはこれほど優しい。

 手をとると、蓮華と千桜は入り口へと繋がる階段を上った。

 千桜が通ると、塞がっていた通路に道が生じる。燕尾服やドレスを身に着けている者がほとんどである社交場で、帝国陸軍の軍服はよく目立つ。賑わっていた空間に緊張感が走り、背筋が伸びる心地がした。

「これは珍しい。小鳥遊少佐殿ではないか」
「隣に連れているお嬢さんは、いったい……」
「縁談は悉くお断りになられていたのではなかったか?」
「うちの娘も、会ってもいただけずに足蹴にされたぞ」
「まさか……ありえない。どこの御令嬢だ?」

 華族の者たちからの視線が突き刺さる。興味関心といった類から外れた、妬み嫉みの感情。蓮華はこういった薄暗い感情を向けられることに慣れていたが、その影響が千桜にも及ぶのかもしれないと思うととたんに恐ろしくなる。

 だが、千桜は信じろといった。信じる。信じる。命令に従う――ではなく、信じるということ。

 蓮華にはその分別がつかずにいたが、いずれにせよ己の意見など取るに足らないのだろう。はやく、この邪魔な感情を消さねば。迷惑をかけたくないのに、不安が押し寄せるのは何故なのか。

 今までであれば、感情を無にし、傀儡のように振舞うなど容易かったはずなのに。

(どうして、消えてくれないのかしら)

 これでは胸を張れているとはいえない。千桜の足を引っ張ってしまっている。それではいけないと思いつつも、どうにも胸のしこりが取れない。

 蓮華は千桜の腕をとり、メインホールへと進んだ。
 千桜が姿を現すなり、会場の空気ががらりと変わる。

 服装を正し、気を引き締めるそぶりする者もいる。千桜は辺りを静観をすると、二階席へと蓮華を連れていく。

「あの」

 朱色の布があしらわれた椅子に腰かけ、蓮華は千桜に声をかけた。

「私のことはどうかお気になさらず。きっと、ご用事があるのでしょう?」

 問いかければ、重々しいため息が聞こえてくる。

「用事は大方、今済ませている」
「え……?」
「おまえという存在を皆に周知させることと、このくだらん夜会の偵察だ」

 二階席はメインホールを良く見渡せる。また逆も然りであり、メインホールで談笑を楽しんでいたはずの華族たちはしきりに千桜の目を気にしているようだった。

「私は、おまえを隠しておくつもりはない」
「……旦那様」
「薄汚れた連中のために、後ろめたさを抱きながら生きていてほしくはないのだ」

 上質なワルツの生演奏がやけに耳にまとわりつく。

 ちらちらと向けられる無数の視線。歪曲した感情。一般庶民などは決して手が届かない天井の世界ではあるが、何故か息が詰まる。ここにあるのは、純粋無垢な感情ではない。それくらいは蓮華でも理解できた。

 何故、うまく立ち振る舞えないのだろう。

 不安や恐れなど消し去るべきなのに。蓮華は千桜を思えば思うほどに、己の力では制御できぬ感情に支配されてしまう。

「偉そうにしていろ、というのではない。人間として生きるうえでの最低限の矜持の話だ」
「……はい」
「だが、すまないな。このような場はうんざりするだろう。長居をするつもりはないから、しばし辛抱してくれ」

 そう言って、冷たい視線をメインホールへと向ける。中央では優雅にダンスを踊っている紳士淑女たちがある。

 ばらばらと散っている者は、おのおの酒を愉しんでいるようだった。

(何か、何か――。お役に立たねば)

 そっと左眼に手を添える千桜を見やる。やはり気分が優れないのだろうと思い、立ち上がった。

「今、何か飲み物をいただいて参ります」

 水がよいだろう。給仕に声をかけるために出向こうとしたが、すんでで千桜に止められた。

「――いい」
「ですが」
「ここで提供されるものは、あまり信用できない」

 蓮華には言葉の意味が分からなかった。

「おまえのそばを離れるつもりはないが、万が一、誰から勧められても一切口にするな」

 蓮華はこくりと頷き、椅子に腰かける。

 そうとは知らずに余計な行動をとってしまった。
 ──だがしかし、飲み物や食べ物が信用できないとはどういう意味なのか。

 メインホールでは、紳士淑女が優雅に酒を酌み交わしているではないか。ここは帝都随一のダンスホール‟カナリア″。
 誰もが憧れるはずの社交場で、ただの水でさえも信用できぬとは、いったい――。

 それきり千桜は口を閉ざし、詳細を説明しようとはしなかった。
 千桜が話さない内容を、蓮華が無理に聞く必要はないのだろう。


 とくに会話もないまま席に座っていると、蓮華と千桜のもとに歩み寄る者がいた。

「普段見かけぬ顔があると思えば、小鳥遊ではないか」

 千桜と同じ軍服を着た男。

 吊り上がった眉尻に、力強い眼光。野太い声は、いくつもの死線を潜り抜けてきたと言わんばかりの貫禄がある。襟章を見るに、階級が相当に高い人物であると伺えた。

「……東雲陸軍中将、ご無沙汰しております」

 千桜は一切の無駄を感じさせない身のこなしで礼をとる。中将となれば、格上の存在だ。だが、千桜の目に敬意の色は浮かばない。そればかりか、冷淡に目を細めている。

「貴様のような社交嫌いが珍しい」
「軍人たるもの、自制すべきかと。あまりに夜会にうつつを抜かすようでは、部下に示しがつきませんでしょう」
「ふん。相変わらず固い男だ。……それで、そちらの御令嬢は?」

 東雲の視線が蓮華に向けられる。蓮華は慌てて立ち上がり、頭を下げる。東雲は、蓮華の頭のてっぺんから足の先まで品を定めるがごとく吟味する。

「俺はてっきり貴様は男に興味があるのかと思っていたが。なるほど……」

 東雲は、蓮華の顔をよく見ようと距離を詰めてくる。千桜はそっと蓮華の前に出ると、冷ややかに瞼を伏せた。

「彼女は私の妻となる女性です。本日は、そのご挨拶もかねて参りました」
「ほう……鉄のような男である貴様が、妻を?」
「私が妻を娶ると何か問題でも? それから、彼女は社交の場に慣れていないもので、どうかそっとしてはいただけないでしょうか」

 中将というと、千桜の上官に当たる人間だ。将来千桜の妻となる身として、一言挨拶をせねば失礼ではないのか。だが、千桜の背中はその必要はないと語っている。蓮華は困惑しつつも、余計な真似はせぬように押し黙った。

「不躾だな。貴様の態度はつくづく気に食わん」

 声を鋭くする東雲を前にしても、千桜の毅然とした態度に変化はない。

「で? どこの家の御令嬢なんだ。社交場では見かけない顔だ――と、下の連中が騒ぎ立てている」

 蓮華はぶるりと肩を震わせた。まさか、巴藤三郎の私生児であるとは口が裂けても伝えられない。

 ふと思い立って蓮華は周囲を見渡す。この場に姉たちはいないだろうか。

 ましてや義母の姿があれば、思わぬ混乱を招くやもしれない。小鳥遊家との関係性も考慮し、一族の汚点を自ら公に晒しはしないだろうが、感情的になり、攻撃的な言葉を向けてくる可能性は重々にある。

 メインホールを見渡したが、それらしき姿はなかった。

「いかにも純粋無垢な御令嬢のようだが。ついに貴様も、自分好みに女を仕込む趣向に目覚めたか?」
「……ご冗談を」

 東雲は含みを込めた笑みを浮かべる。千桜は煽りに乗じることなく、きわめて冷淡に対処した。

「まあいい。貴様の軍略は上が評価している。その無粋な態度も多めに見てやらんでもないが、あまり俺の気を立たせるなよ」

 声を凄める東雲に対し、やはり千桜は微動だにしない。上官に向ける視線にしては冷ややかだ。いったい千桜の左眼には何が映っているのかと蓮華は思った。

「佐山と工藤が貴賓室に控えている。帝国陸軍の方針について議論をしていたところなのだが、ちょうどいい。貴様の面を貸せ」

 東雲が言い捨てると、千桜はわずかに眉尻を上げた。軍人の密談に女である蓮華が立ち入るわけにはいかない。このままでは、蓮華がいるがために、重要な誘いを断らせることになる。

 やはり、千桜の足手まといになっているのではないか。

「申し訳な――」
「あの、私のことならどうかお気になさらないでください」

 ついに我慢ならず、蓮華は口を挟んでしまった。用事が済むまで待つことくらい、子どもにだってできる。命じられれば一人で帰宅もできる。千桜の心証を悪くさせるのは忍びなかった。

「ご迷惑でなければ、外の庭園にてお待ちしております」
「だが」
「ご心配には及びません」

 館内で一人でいるには心細いが、閑散としている庭園であればそう問題はないだろう。また、一人でぼんやりするのには慣れている。時間を気にせず議論をしてもらってかまわなかったのだが、千桜の表情は重々しい。

「あの、では……私はこれで」
「おい――!」




 蓮華は居たたまれなくなり、逃げるようにその場を立ち去った。
 すかさず追いかけようとする千桜を、東雲が淡泊に制する。

「案ずるな。彼女には、信用に足る護衛をつけてやろう」

 東雲陸軍中将。この男の甘言はまったくもって信用ができない、と千桜は心の中で舌打ちをする。

 上官であろうが、この男は敬意を払うべき人間ではない。

 千桜は鋭く目を細めた。くだらない欲望のために、軍部を意のままにしようと企んでいる人間――それが東雲だ。

(最近では政治的支持を得るため、東雲は社交場によく顔を出しているようだが)

 左眼に映る心の色は見るに堪えないほどに濁っている。毒蛇のような黒い靄が東雲から伸びていた。

(この男も……か)

 千桜は、この独特な色をもつ心の靄に既視感を得た。それも右翼的思考をもつ人間によくみられる色だ。人格すらを飲み込むほどの黒が、全身に絡みついている。

 今となっては、東雲の顔立ちすらろくに判別できぬほどであった。本来、人の心の色は十人十色であり、同じ喜怒哀楽であっても出る色はさまざまだ。だが、ここまで似通っているとなると、人の手が加えられていると想像するに容易い。
 やはりこの‟カナリア‟がきな臭いか。

(‟護衛‟とは随分と体のいい。‟人質‟にとらせてもらった……と言っているようなものだ)

 東雲は貴賓室へと向かって歩みを進める。いうことを聞かねばどうなるか。

 つくづく卑怯な男だ――。