「夜会……でしょうか」

 朝餉の時間帯。蓮華は、膳を挟み、向かいに座っている千桜を見つめる。千桜は毎朝飲んでいる白湯を畳の上に置くと、重々しくため息をついた。

「今週の土曜に‟カナリア″にて開催されるようだ」

 今日の朝餉は、大根と豆腐の味噌汁と、さばの煮つけ。漬物、白米。蓮華は何度も炊事の手伝いを申し出たが、ことごとく却下されてしまった。ゆえに朝は手持無沙汰になる時が多々ある。

 しかし、よくよく考える。

 蓮華が炊事を担当したとして、普段と比べて味が落ちてしまうのではないか。ならば、粗末な料理を千桜に口にしてもらうのは忍びない。このままおとなしくしておくべきだ。

 だが、もし。万が一、蓮華が作ったものを喜んで口にしてくれたら……とそこまで考えて、蓮華は慌てて頭を振った。

「本当に、私も参加してしまってよろしいのでしょうか?」

 蓮華は持っていた箸を置き、ぴんと姿勢を正す。

「ああ。すまないな、あまり気は乗らないだろうが」
「い……いえ、旦那様さえよろしければ、私は……」

 千桜から切り出された話は、思ってもみない内容だった。
 上流階級の社交場である、ダンスホール‟カナリア″の夜会に蓮華もついてきてほしいというものだ。



 千桜は社交場を好ましく思っていないが、帝国陸軍の少佐という立場があるため、時と場合により参加せざるを得ない状況があった。

 本音と建て前が混ざり合う‟カナリア‟は、綺麗な小鳥を思い浮かべる余地もないほどに、汚い色が混ざり合っている。

 本来であれば、一秒たりともその場に身を置いていたくはないのだが、‟カナリア‟では少々きな臭い動きもあった。

 千桜は向かいあっただけで相手の思惑が手に取るように分かるため、時に監視の意味を込めて社交場に出入りをしている。

 最近では貴賓室に隠れて、政治的陰謀を膨らませている人間が多くいると聞く。

 総理大臣に批判的な一派が暴徒化しているため、もし現在の政権が崩れでもすれば、この国の未来は大きく傾くことになるだろう。

 そういった意味もあり、密会の場として使用されやすい‟カナリア‟を野放しにできない。

 また、あの場に蓮華を連れてゆくのは、婚約者として華族たちに認知してもらう必要があるためだ。

 華族の中でも名の知れた名家、小鳥遊家当主の妻になること──。

 一部ではすでに見当違いな噂話ばかりが先行しているが、あらためて公衆の面前に事実を示す。

 蓮華を社交場に連れてゆくのは気が進まないと思う反面、いつまでも自信を失くしたまま、後ろを向いていてほしくなかった。

 巴家の人間も参加するだろう夜会ではあるが、これを期に過去の自分と決別ができればいい。

 華族など、甚だ馬鹿馬鹿しい。

 そう思うからこそ、蓮華の清らかさを知らしめてやりたかった。



「ですが、どうしましょう。私はよそ行きのドレスは持っていないのです」

 蓮華は、姉たちに連れられた夜会での出来事を思い出した。

 モダンなドレスで飾られた婦人の中で、地味な着物姿である蓮華は浮いていた。時代遅れも甚だしく、皆からの嘲笑を一身に受ける。

 まるで人間を見る目ではなかった。なぜ、家畜がここにいるのか――といった軽蔑の視線を感じた。
 息苦しくはあったが、蓮華はあの環境下で生きてゆくしかなかった。すべてを受け入れるしかなかった。

「案ずる必要はない。似合うものを仕立てさせる」
「そんな……! あの、私」
「手間をかけさせる詫びだと思って、受け取ってくれると嬉しいのだが」

 その華族社会に蓮華が溶け込めるとは微塵も思えない。意匠のドレスも自分には勿体ないと感じてしまう。

 千桜の馴染みの者に声をかけられても、うまく応対できる自信がない。そうなってしまったら、やはり千桜の心証を悪くさせてしまうのではないか。小鳥遊家当主の妻としてふさわしい人物は他にいるのではないか、と非難されてしまう。

 鬱々とする蓮華をよそに、千桜は冷静沈着であった。湯呑を持ち、優雅に白湯を飲んでいる。

 蓮華は過度な緊張から、しばらく食事が喉を通らなかった。




 千桜が常駐する屯所は、その日人の往来がいつになく多かった。

「小鳥遊少佐、おはようございます。本日の朝刊はすでにご覧になられましたでしょうか!」

 千桜の執務室の中で直立している男は、山川二等兵である。角刈りの頭と太い眉が目立つ、千桜の忠実な部下だ。

 千桜は氷のような瞳を一度だけ向け、「ああ」とひとつ返事をする。

「またしても、総理大臣指示派の議員が不審死を遂げたとのことです!」
「今月で二人目か……」
「はい……。それから、この頃は軍上層部でも右翼的発言が目立つようであります」
「上の言い分には呆れ切らしているところだ。このままゆけば、意味のない戦争が起こる」

 朝刊には、総理大臣指示派閥に属している衆議院議員が自宅で何者かに殺害された内容が記されている。
 ここ最近ではとくに、財政会の要人の──衆議院議員の不審死が相次いでいる。
 そのどれもが民主主義的意見を掲げる者ばかりであり、千桜は裏で糸を引いている人間がいるのではないかと踏んでいた。

 
 明治憲法下の日の本において、帝国議会を構成する上院に貴族院が設定されている。

 貴族院は、貴族院令に基づき、皇族議員、華族議員及び勅任議員で構成されていて、解散がない。
 任期七年の者と終身任期の者がいるが、下院にあたる衆議院とは同格の関係にあり、且つ、予算決議権は衆議院にあった。

 最終的な議決決定権は衆議院にあることから、かろうじて民主主義が保たれているといえていたが、ここにきてその天秤が大きく傾きかけている現状がある。

 相次ぐ衆議院議員――それも総理大臣指示派閥の不審死には、何か裏がある。とくに不夜城ともされるダンスホール‟カナリア‟がきな臭い。

「衆議院議員の佐藤氏についてですが、不審死を遂げる一週間前に‟カナリア‟に出入りをしていたようであります」
「そうか。やはりか……」
「近頃ではサロンが流行っておりますし、意見交換をするどさくさに紛れて接触があったのでしょうな……」

 千桜は朝刊を広げ、鋭い視線を向ける。

(まったくもって趣味が悪いな)

 推理小説の黒幕にでもなったつもりか。不審死を遂げた現場には共通して一凛の黒薔薇が置かれている。

 まるで、自分を探し出してみろと言わんばかりの自己主張だ。このようなもの、軍人である千桜が追いかける必要もないのだろうが、近頃の帝都警察が全く機能していないのだ。新聞で総理大臣指示派の不審死が報じられようと、一線引いている。捜査の手をあからさまに緩めている。

 ついに警察の上層部まで腐ったか――と千桜は大きなため息をついた。

「どうにかして貴賓室に潜りこめたらよいのだが。軍人は警戒されるのも当然か」

 千桜の左眼の仕様上、ダンスホール‟カナリア″に長時間滞在するとひどい頭痛に見舞われる。さまざまな思惑、裏切り、劣情、欲望が渦巻いている社交場に適していないと自覚していながらも、野放しにはできぬ状況がある。

 であるから、千桜は時々、なんの前触れもなく夜会に顔を出すようにしているのだ。

「少佐のお姿があると、あたりに緊張感が走るのでしょうな」
「どうだか。……それにしても、なかなかしっぽを出さない」
「思うに、やはりあの‟黒薔薇伯爵″が一枚嚙んでいるのでしょうか」

 ‟黒薔薇伯爵‟。本名は黒薔薇嶺二くろばられいじ。

 華族でありながらも、国会議員や軍人の道を進んでいない。

 貿易会社を数多経営する傍ら、趣味の一環でダンスホール‟カナリア″の運営をしている。貴族院議員ではないものの、経済的政治的な発言力は高い。最近では一部の議員からの賄賂疑惑が浮上しているほどだ。

「だろうな。だが、奴はなかなか表舞台に姿を現さん」
「食えない男ですね」
「派手な演出が好きなようだが、その分警戒心も強いのだろう」

 執務机の上に新聞を置き、千桜は再びため息をついた。

「自分の方でも、引き続き調査を進めてゆく所存でございます!」
「ああ、すまないな。くれぐれも気をつけるように」

 山川は敬礼をすると、執務室から出ていく。山川を一瞥をして、千桜は椅子から立ち上がった。

 午前は訓練がある。午後には飛行場への視察を控えている。

 その合間をぬって、一連の不審死に関する事件を調べる日々。千桜には、この一連の事件が華族社会の腐敗によるものだと思えてならないのだ。

 人間の傲慢さが生んだ怪物がどこかに潜んでいる。

 国家を操りたいなどという野望が絡んでいる気配はなく、そこにあるのは単なる快楽の一種であると推測する。くだらない階級制度などがあるから、思いあがる輩が出てくるのだ。

 すべてを掌握した気分になっているつもりか。

 そういった人間の心の色は、見るに堪えないほどにどす黒く汚れている。

 黒薔薇伯爵の色はいったいどのような色をしているものか。考えずとも想像に容易い。おそらくは、救いようもないほどの漆黒に染まっているのだろう。

 

    *



「こんばんは、ご婦人。今夜はいい夜ですねえ」

 満月が雲から顔を出す。帝都で眩い光を放つダンスホール‟カナリア″で、男は女に声をかけた。バルコニーでワイングラスを持ったまま、女は振り返る。

「まあ……これはこれは――!」
「何やら思いつめたご様子だったもので、つい声をかけてしまいました」

 男は闇の中から姿を現すと、うやうやしく頭を下げる。

 女は苛立っていた。

 愛娘たちの縁談が思うように進まず、亭主には己の発言を軽んじられ、まったくもって矜持が満たされずにいたのだ。

 いや、そもそもの発端はそれではない。納得ができない。許せない。受け入れがたい。もとはといえば――とそこまで考えかけたが、男の姿を視界に入れた瞬間に、女の瞳にはたちまち歓喜の色が宿った。

 ダンスホール‟カナリア″は眠らない。

 単なる上流階級の社交場という意味合いだけでなく、財政界の要人たちの議論の場となることもあれば、帝大の学生向けのサロンが開催されることもある。また、時として他人に打ち明けられぬ秘密の会合の場としても使用された。

 今夜もまた、上質なワルツの中にいびつな思惑が渦巻いている。

「このような素敵な場所で、なんとお見苦しいところを……大変申し訳ございません」
「そのようなことはないのですが、少し心配だったもので。あなたはたしか……巴藤三郎氏の奥様であられますね?」

 男が尋ねると、女はぴんと背筋を伸ばす。カールしている前髪をしきりに整え、落ち着かない様子だった。

「はい、巴藤三郎の妻、美代でございます」

 女は――美代は、ワイングラスをテーブルに置いて男と向き合った。男は目尻をゆっくりと下げると、心の隙間に入り込むがごとく優しく囁きかけた。

「藤三郎氏には、日頃よりよくしていただいております」
「まあ……」
「ですから、その奥方がため息をつかれているなんて、心が痛んでしまいますねえ」

 満月が浮かぶバルコニー。影の中に立つ男の瞳が怪しく光る。重厚感のある演奏が怪奇な空間を作り上げた。ゆらり、ゆらり、足元にひそむのは、暗闇だ。

「何かお悩みごとでも……? よろしければ、私がお聞きいたしますよ?」

 男の目が三日月型に――ゆがんだ。