静かな満月の夜。湯浴びを済ませ、蓮華は縁側に腰かけて枝垂れ桜を見上げる。

 狂い咲きとは真のことで、四月が終わっても桜の花が散る気配はない。神が宿っているならば、それはいったいどのような姿をしているのだろう。きっと何事も包みこむような優しい存在であるのだろう、と蓮華はぼんやり考えた。

 正式な祝言はまだ上げてはいないが、小鳥遊家に嫁いでから凪のように穏やかな時間を過ごしている。

 巴家で下女をしていた頃には考えもしなかった静かな夜。これまでは毎日湯に浸かる習慣もなかった。井戸の水を頭から被り、なんとか清潔さを保っていたが、姉たちはそんな蓮華を‟汚い″と拒絶したほどだ。

(こんなによくしていただいているのに、私はまだ、何も……)

 読み書きも、琴も、生け花も、お茶も、踊りも、かろうじてこなせる程度までにはなったが、千桜の妻としてふさわしいほどの出来栄えかと問われれば、そうではない。このままでは、千桜が笑いものになってしまうやもしれない。

 それなのに、蓮華を千桜は叱らないのだ。そればかりか自身が大事にしている小説を貸してくれたり、わざわざ蓮華の花の栞まで用意してくれた。

 打たれない。蹴られない。罵倒されない。ここにいると、際限なく胸があたたかくなる。消え失せていたはずの蓮華の感情が少しずつ蘇った。

「そのような薄着で、風邪を引くぞ」

 夜風を浴びていると、背後から声をかけられた。

 振り返るまでもなく、そこに誰がいるのか分かった。

「あの、申し訳ございません」
「おまえは自分自身に疎すぎる。これでも着ていなさい」

 すぐに立ち上がって自室に戻ろうとするが、すとんと肩の上から何かがかけられた。千桜が屋敷でよく着ている羽織だ。

 蓮華は居ても立っても居られなくなり、すぐに返そうと思ったが淡泊にそれを制された。

「旦那様、これは」
「いい。春先でも夜は冷える。そのまま着ていろ」

 言動とは裏腹に、凍てつく氷のような瞳を向けてくる千桜。蓮華の隣に腰をおろすと、無表情のまま枝垂れ桜を見上げた。

「旦那様」
「……なんだ」
「いただいた栞は、大切に使わせていただいております」

 何か伝えねばならない。蓮華が他人にこのような気持ちを抱くなど、いつ以来であろうか。これまでの蓮華には心が存在しなかったように思える。まるで傀儡のように、ただ機能しているだけであった。