千桜から小説を渡されたのち、蓮華は寝る間も惜しむほどに読書に没頭した。読めない漢字ばかりで辞書を引きながらではあったが、はじめて触れる物語というものに蓮華は形容できぬ心地を得ていた。
千桜から手渡された小説は、どれも純文学であった。優しい……だが、人間性の根幹や社会観念を冷静に突き詰めている。当初は識字能力を高めるためにただ文章を読み解いていただけであったが、しだいに小説を通じて千桜の顔を思い浮かべるようになった。
なぜ、ここで千桜の顔が浮かぶのか。蓮華の役目は、千桜に相応しい妻となるべく、日々精進することであるのに。文字をいちはやく覚えなければならないというのに、頁をめくる手が止まる。
(これでは、申し訳が立たないわ……)
それでも蓮華は文机に向き合いながら考えてしまう。
巴家の下女をしていた時にはなかったことだ。家じゅうの掃除も、炊事の準備も、主からの無理難題な注文も、蓮華はなんの感情も抱かずにこなしてきた。その間に主の顔が浮かぶなど、一度だってなかった。
小説を読んでいると、千桜の心に近づけているような気がするのだ。最近ではもっぱら、そのために文字を覚えようとしている気配すらある。
「蓮華様、少々よろしいでしょうか」
小説を読む手をとめていると、襖の向こうから声がかかる。
「はい、どうぞ」
小説を閉じて躰の向きを変える。ゆっくりと襖が開くと家令の姿があった。
「お坊ちゃまから、こちらを蓮華様に……と」
蓮華は、家令から手渡された紙の小袋を見つめる。
「旦那様から私に、ですか?」
「はい。ちょうど屯所に立ち寄る予定があったのですが、その際に」
「これは……いただいてよいものなのでしょうか」
蓮華が尋ねると、家令が首を振った。
「もちろんです。そう固くならずに、包みを開いてみては?」
以前であれば、申し訳なく受け取るのも憚れた。身の程知らずであるから、と躊躇いもなく頭を下げていただろう。
だが、今の蓮華の心の中は言葉では表現できない不思議な感覚が居座っている。あたたかく、むず痒い。熱などないのに、ほんのりと躰が熱いような。地面に足がついていない感覚すらある。
蓮華は家令に促されるままに包みにハサミを入れる。中に入っていたのは、蓮華柄の栞だった。
「あの……これは」
蓮華は動揺をしつつ、家令の顔をうかがった。
「素敵ですねえ。きっと、蓮華様にと選ばれたのでしょう」
しげしげと栞を見つめる家令。蓮華はますます困惑した。
「ですが、お坊ちゃま……こういうものは直接渡すべきでしょうに。照れ臭かったのでしょうか」
「あ、あの……私、本当に受け取ってしまってよいのでしょうか」
手にもった栞を眺めると、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。身の丈にあっていないものだと頭では理解していても、手放せないのだ。
「どうか、日々のおともに使って差し上げてくださいませ」
蓮華はほうっと息を吐く。
(いつも……いただいてばかりだわ)
何も返せていない。読み書きにおいても中途半端だ。なぜ、気が焦るのか。胸のあたりにしこりがある。見返りは求めていないと言われたばかりだというのに、うじうじと同じ思考ばかりが巡る。
「ああ、その小説は……お坊ちゃまが尋常小学校に通われていた頃から大切に読んでいらしたものですねえ」
すると、家令が文机の上に並んでいる書籍へと視線を向けた。懐かし気に目を細めるが、蓮華ははっと肩を震わせた。
「そうだとは知らず、長々とお借りしてしまって……どうしましょう」
小説の角は何度もめくった跡があった。だが、元来千桜は物を大切にする性格であるのか、痛みなどはなかったため余計に気が付かなかった。蓮華が狼狽すると、家令は静かに首を振った。
「気を病む必要などございませんよ。お坊ちゃまは、蓮華様だからお貸しになられたのでしょうから」
家令の目尻に皺が寄る。
「私……だから?」
「ええ、そうです」
千桜から手渡された小説は、どれも純文学であった。優しい……だが、人間性の根幹や社会観念を冷静に突き詰めている。当初は識字能力を高めるためにただ文章を読み解いていただけであったが、しだいに小説を通じて千桜の顔を思い浮かべるようになった。
なぜ、ここで千桜の顔が浮かぶのか。蓮華の役目は、千桜に相応しい妻となるべく、日々精進することであるのに。文字をいちはやく覚えなければならないというのに、頁をめくる手が止まる。
(これでは、申し訳が立たないわ……)
それでも蓮華は文机に向き合いながら考えてしまう。
巴家の下女をしていた時にはなかったことだ。家じゅうの掃除も、炊事の準備も、主からの無理難題な注文も、蓮華はなんの感情も抱かずにこなしてきた。その間に主の顔が浮かぶなど、一度だってなかった。
小説を読んでいると、千桜の心に近づけているような気がするのだ。最近ではもっぱら、そのために文字を覚えようとしている気配すらある。
「蓮華様、少々よろしいでしょうか」
小説を読む手をとめていると、襖の向こうから声がかかる。
「はい、どうぞ」
小説を閉じて躰の向きを変える。ゆっくりと襖が開くと家令の姿があった。
「お坊ちゃまから、こちらを蓮華様に……と」
蓮華は、家令から手渡された紙の小袋を見つめる。
「旦那様から私に、ですか?」
「はい。ちょうど屯所に立ち寄る予定があったのですが、その際に」
「これは……いただいてよいものなのでしょうか」
蓮華が尋ねると、家令が首を振った。
「もちろんです。そう固くならずに、包みを開いてみては?」
以前であれば、申し訳なく受け取るのも憚れた。身の程知らずであるから、と躊躇いもなく頭を下げていただろう。
だが、今の蓮華の心の中は言葉では表現できない不思議な感覚が居座っている。あたたかく、むず痒い。熱などないのに、ほんのりと躰が熱いような。地面に足がついていない感覚すらある。
蓮華は家令に促されるままに包みにハサミを入れる。中に入っていたのは、蓮華柄の栞だった。
「あの……これは」
蓮華は動揺をしつつ、家令の顔をうかがった。
「素敵ですねえ。きっと、蓮華様にと選ばれたのでしょう」
しげしげと栞を見つめる家令。蓮華はますます困惑した。
「ですが、お坊ちゃま……こういうものは直接渡すべきでしょうに。照れ臭かったのでしょうか」
「あ、あの……私、本当に受け取ってしまってよいのでしょうか」
手にもった栞を眺めると、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。身の丈にあっていないものだと頭では理解していても、手放せないのだ。
「どうか、日々のおともに使って差し上げてくださいませ」
蓮華はほうっと息を吐く。
(いつも……いただいてばかりだわ)
何も返せていない。読み書きにおいても中途半端だ。なぜ、気が焦るのか。胸のあたりにしこりがある。見返りは求めていないと言われたばかりだというのに、うじうじと同じ思考ばかりが巡る。
「ああ、その小説は……お坊ちゃまが尋常小学校に通われていた頃から大切に読んでいらしたものですねえ」
すると、家令が文机の上に並んでいる書籍へと視線を向けた。懐かし気に目を細めるが、蓮華ははっと肩を震わせた。
「そうだとは知らず、長々とお借りしてしまって……どうしましょう」
小説の角は何度もめくった跡があった。だが、元来千桜は物を大切にする性格であるのか、痛みなどはなかったため余計に気が付かなかった。蓮華が狼狽すると、家令は静かに首を振った。
「気を病む必要などございませんよ。お坊ちゃまは、蓮華様だからお貸しになられたのでしょうから」
家令の目尻に皺が寄る。
「私……だから?」
「ええ、そうです」