「新品でなく申し訳ないのだが」
「あ、あの、本当によろしいのでしょうか」
「ああ。それはもう何度も読んでいて、内容は記憶している」
蓮華は小説を胸に抱きしめる。なぜか、千桜が読んでいたものだと思うと、心があたたかくなった。そしてより一層、蓮華の中で疑問が生まれる。
(旦那様は、どうして私などにこんなにも親切にしてくださるの)
‟愛する‟とは何なのか。
小鳥遊家に嫁ぐことになり、蓮華の生活は一転した。自分を下げるなと千桜はいう。簡単に謝るなと千桜はいう。死ぬ気で働け、ではなく、ちゃんと休めと千桜はいう。それをすぐに受け入れるのは難しかったが、少しずつ、少しずつ、蓮華の考え方や行動が変わりつつあった。
聞いてみてもいいだろか。
迷惑ではないだろうか。
身の程知らずではないだろうか。
蓮華は何度か口を開き、閉じ、また開いた。
「あの……」
ぼうっとその場に突っ立っている蓮華へと、氷のような視線が向けられる。
「ずっと、お聞きしたいと思っていたのです」
小説を胸に引き寄せ、唇を結んだ。
「烏滸がましいのは承知のうえで、その……」
「かまわない。言ってみなさい」
はな子の言葉を思い出す。自分がどう思っているかは関係ない――。それは、誠なのだだろうか。
「旦那様は、なぜ私などにここまで」
「……」
「‟忘れられなかった‟とは、‟愛する‟とは……どういう意味なのでしょうか?」
蓮華は何度も考えてみたが、分からなかった。辞書を引いても、言葉だけが独り歩きするのみだ。
「なぜ、見返りをもとめないのでしょう」
「……」
「なぜ、労いの言葉をかけてくださるのでしょう」
「……」
「私には、どうにも分からないのです。だって、旦那様のような方は今までに一人だって」
いなかった。
ゆえに、どうすればよいか困惑する。もっと頑張らねば、役に立たねばと焦ってしまう。なのに、ふとした時に心地よさも感じるようになっているのだ。
ならぬのに。汚れた自分などが、このような感情を抱いてはならぬのに。手渡してくれた小説を手放せないのだ。
「私は軍人としての正義は貫くが、善人というわけではない」
千桜は、蓮華の想いに応えるように静かに口を開く。
「なんとも思わぬ相手を労ったり、無条件に家に招き入れたりしない」
蓮華は許してほしかったのか知れないと思った。
望まれずにこの世に生を受けた自分が、人並みの幸せを感じることを。
「私はあの夜に、強くお前に惹かれたのだろう。虚言ばかりが飛び交う腐った世であろうと、美しく、そして優しく咲いている花のようだと思った」
これが‟愛する‟という意味か。蓮華の心にようやく言葉が重く刺さる。
「だから、もう一度会いたいと思い、身内の者に探させたのだ」
「旦那様」
「強引なやり口だった、とは反省している。だが」
淡々と言葉を並べ、千桜はゆっくりと右手を伸ばした。蓮華の艶やかな髪に触れると、壊れ物を扱うように指を通した。
「見返りを求めないのも、一日のがんばりを労うのも、すべてはお前を愛しんでいるからだと、思ってくれると嬉しい」
蓮華は形容しがたいむずがゆさを覚える。胸に違和感がある。風邪をひいているわけでもないのに、躰がぼうっとする。
これはなんだ。あたたかく、いじらしく、逃げ出したいような、そうしたくないような。はじめての感情に困惑しつつも、やはり心地よさがあるのだ。
「……できれば、一度で理解してもらえると助かるのだが」
そう何度も口にできるものではない、と千桜は軽く咳払いをした。
「は……い」
「……」
「……」
「その、なんだ」
蓮華はどうにも落ち着かずにうつむいた。
「今夜はすき焼きだそうだ」
「すき焼き……」
「早いところ飯にしよう。お前も支度をしてくるといい」
蓮華も千桜もたどたどしく距離をとる。あわてて千桜の私室を出ると、台所からだしのきいた良い香りが漂っていた。
「あ、あの、本当によろしいのでしょうか」
「ああ。それはもう何度も読んでいて、内容は記憶している」
蓮華は小説を胸に抱きしめる。なぜか、千桜が読んでいたものだと思うと、心があたたかくなった。そしてより一層、蓮華の中で疑問が生まれる。
(旦那様は、どうして私などにこんなにも親切にしてくださるの)
‟愛する‟とは何なのか。
小鳥遊家に嫁ぐことになり、蓮華の生活は一転した。自分を下げるなと千桜はいう。簡単に謝るなと千桜はいう。死ぬ気で働け、ではなく、ちゃんと休めと千桜はいう。それをすぐに受け入れるのは難しかったが、少しずつ、少しずつ、蓮華の考え方や行動が変わりつつあった。
聞いてみてもいいだろか。
迷惑ではないだろうか。
身の程知らずではないだろうか。
蓮華は何度か口を開き、閉じ、また開いた。
「あの……」
ぼうっとその場に突っ立っている蓮華へと、氷のような視線が向けられる。
「ずっと、お聞きしたいと思っていたのです」
小説を胸に引き寄せ、唇を結んだ。
「烏滸がましいのは承知のうえで、その……」
「かまわない。言ってみなさい」
はな子の言葉を思い出す。自分がどう思っているかは関係ない――。それは、誠なのだだろうか。
「旦那様は、なぜ私などにここまで」
「……」
「‟忘れられなかった‟とは、‟愛する‟とは……どういう意味なのでしょうか?」
蓮華は何度も考えてみたが、分からなかった。辞書を引いても、言葉だけが独り歩きするのみだ。
「なぜ、見返りをもとめないのでしょう」
「……」
「なぜ、労いの言葉をかけてくださるのでしょう」
「……」
「私には、どうにも分からないのです。だって、旦那様のような方は今までに一人だって」
いなかった。
ゆえに、どうすればよいか困惑する。もっと頑張らねば、役に立たねばと焦ってしまう。なのに、ふとした時に心地よさも感じるようになっているのだ。
ならぬのに。汚れた自分などが、このような感情を抱いてはならぬのに。手渡してくれた小説を手放せないのだ。
「私は軍人としての正義は貫くが、善人というわけではない」
千桜は、蓮華の想いに応えるように静かに口を開く。
「なんとも思わぬ相手を労ったり、無条件に家に招き入れたりしない」
蓮華は許してほしかったのか知れないと思った。
望まれずにこの世に生を受けた自分が、人並みの幸せを感じることを。
「私はあの夜に、強くお前に惹かれたのだろう。虚言ばかりが飛び交う腐った世であろうと、美しく、そして優しく咲いている花のようだと思った」
これが‟愛する‟という意味か。蓮華の心にようやく言葉が重く刺さる。
「だから、もう一度会いたいと思い、身内の者に探させたのだ」
「旦那様」
「強引なやり口だった、とは反省している。だが」
淡々と言葉を並べ、千桜はゆっくりと右手を伸ばした。蓮華の艶やかな髪に触れると、壊れ物を扱うように指を通した。
「見返りを求めないのも、一日のがんばりを労うのも、すべてはお前を愛しんでいるからだと、思ってくれると嬉しい」
蓮華は形容しがたいむずがゆさを覚える。胸に違和感がある。風邪をひいているわけでもないのに、躰がぼうっとする。
これはなんだ。あたたかく、いじらしく、逃げ出したいような、そうしたくないような。はじめての感情に困惑しつつも、やはり心地よさがあるのだ。
「……できれば、一度で理解してもらえると助かるのだが」
そう何度も口にできるものではない、と千桜は軽く咳払いをした。
「は……い」
「……」
「……」
「その、なんだ」
蓮華はどうにも落ち着かずにうつむいた。
「今夜はすき焼きだそうだ」
「すき焼き……」
「早いところ飯にしよう。お前も支度をしてくるといい」
蓮華も千桜もたどたどしく距離をとる。あわてて千桜の私室を出ると、台所からだしのきいた良い香りが漂っていた。