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 朝から気持ちが落ち着かなかった。

 向上心のある翔琉が自主的に絵を描きに美術室に来ることのないように、彼には念のため『今日だけは来ないで。凌空先輩と二人きりにさせて』とメッセージを送っておいた。『美術室を私物化すんな』と怒られたものの、交渉の結果、今日に限って晴陽は美術室を占領する権利を手に入れた。

 そして全く集中できずに終わった講習の後で二年生の教室まで凌空を迎えに行き、ついに彼を自分のホームグラウンドもとい、美術室に案内した。

「俺、美術室って初めて入ったかも」

 見慣れた美術室に凌空がいる。ただそれだけで、胸が詰まって昇天しそうな光景だった。西陽の差し込む窓から外を眺める凌空の横顔の美しさに、吸い込まれてしまうほどに見惚れた。

 いつ、どこにいても、凌空は美しい。そんな彼の魅力的な存在感を直に肌で浴びながら、キャンバスにその姿を残したいと常に望み続けてきた。

 晴陽の中に迸る欲望を凌空にぶつけられる日がとうとうやって来たことに、体が喜びで震えてしまう。

「じゃあ、早速描いていきたいと思いますので、そこの丸椅子に座って……先輩?」

 壁に沿って配置されているイーゼルにかけられたいくつかのキャンバスを、凌空はじっと見つめていた。

「ここにある絵って全部、晴陽が描いたのか?」

「いえ、私ともう一人の部員の久川が描いた絵が混ざっていますよ。凌空先輩が今見ていた馬の絵は、私が描いたやつですけど」

「やっぱそうか。俺は絵のことはよくわからないけど、素人目から見ても全然違うとは思った。上手い方が晴陽だろ?」

 上手い方と言われて首肯するのは気が引けたが、凌空が指を差したのが晴陽の絵だったので素直に「はい」と答えた。

 それからしばらく凌空は晴陽の絵を鑑賞していた。自分の作品を特別な好意を抱いている人に見られるというのは、嬉しい気持ちと、評価に怯える気持ちが混在して妙に落ち着かないものだと知る。

「晴陽が絵を描き始めたのっていつから?」

「小学校一年生のときに地元の絵画教室に通い始めました。教室自体は病気が原因で辞めちゃったんですけど、絵を描くことはずっと続けています」

「上手いわけだ。……なあ、晴陽って人間は描かないのか? ここにある絵はみんな、風景か動物か無機物だけど」

「凌空先輩と出会ってからは描いていないです。次に人間を描くなら、先輩って決めていたので」

「それは……光栄と言っていいのか?」

「完成後にそう思ってもらえるなら、作家冥利に尽きますね。先輩、そこの丸椅子に座ってリラックスしてください」

 準備していたイーゼルを凌空の近くに移動させ、真っ白なキャンバスを立てかけた。

 いよいよ夢が叶うのだと思うと、緊張と歓喜で手が震える。口から飛び出そうになる心臓を深呼吸でなんとか体内に留め、真っ直ぐにモデルである凌空を見据えると、彼の凛とした佇まいにつられて晴陽の背筋も伸びた。

 こんなに美しい人を描ける機会をもらったのに、持てる力のすべてを使って描き切れないなんて無礼、万死に値する。

 震えは止まった。一度だけ息を吐いてから、鉛筆でキャンバスに黒を入れた。

 一度着手し始めると脳内から今までにない量のアドレナリンがどんどん放出されて、鉛筆を走らせる手が止まらなかった。

 顔の輪郭、各パーツのバランス、髪の質感、どこを見ても、どの瞬間を切り取っても、凌空は美しく晴陽の目と心を惹きつけて離さない。凌空を自分の手で平面上に残せる喜びに、気を抜くと体細胞が爆発してしまいそうなほど興奮した。

 何も言わずに黙々とデッサンを続ける晴陽に、凌空は文句ひとつ言わずに同じ態勢を取り続けて付き合ってくれている。晴陽が望む『自分だけに見せてくれる表情』を現時点での凌空がどこまで見せているのかは、晴陽には判断がつかない。

 ただ、以前よりも確実に彼の表情は柔らかく、優しいものになっていると思った。

 永遠に続いてほしいとすら思った夢のような時間も、いつかは終焉がやってくる。晴陽の場合、それは下校時刻のチャイムという形で告げられた。

 手にしていた鉛筆をそっと置いて、放心状態でキャンバスを見つめた。

 長方形の世界に晴陽の愛する人が収められている現実に、自分で描いておきながら感動を覚えた。

「描けたのか?」

「はい、デッサンだけですが……すみません、三分だけでいいので、休憩させてください」

 凌空からもらった時間は今日、この日だけだ。制限時間内に描き終えなければならないという重圧からの解放と達成感で、全身から力が抜けて動けなくなってしまった。

 だけどアドレナリンはまだ体に残っているから、脳は活性化しているし目も冴えている。十年近く絵を描いてきたが、こんな感覚は初めてだった。体は動かないのに、心の底から楽しくて仕方がなかった。

「なあ、見てもいいか?」

 ずっと同じ姿勢をしていた凌空は立ち上がり、気持ち良さそうに背伸びをしてから近づきキャンバスを覗き込んだ。

 不安と期待の混ざった気持ちで凌空がどんな反応をしてくれるのか待っていたが、彼はキャンバスの前で微動だにとも動かなかった。

「……晴陽。二階堂菫って名前、覚えてるか?」

 凌空の顔はいつにも増して白く、血の気が引いているようにすら見えた。

「え? えっと……この間水族館で会った男の人の、妹さんですよね? 凌空先輩のことが好きで中等部のときに何度も告白してきた、私のライバルだっていう……」

 どうして今、その人の名前が出てくるのだろう。

 胸がざわついたけれど、それは嫉妬というよりも恐怖心の方が強かったように思う。

 ――まるで晴陽の本能が、これから先の展開に警鐘を鳴らしているかのように。

「菫も美術部で絵が上手かった。学校に展示されていた何かの賞を取った絵が男の肖像画だったんだが……その絵と、晴陽が描いた俺が……似てるんだ」

 晴陽の心臓が大きな音を出して、跳ねた。

 動揺しているのだろうか。でも、どうして? まるで嘘が露呈してしまったときのような、この焦りは一体どこから生じているのだろう。

「晴陽は心臓移植手術を受けたって言ったよな? ドナーが誰なのか知っているのか?」

「いえ、知りません……原則的に、ドナーの情報は患者には知らされませんから」

 晴陽の理解が追いつかないまま、凌空は真っ青な顔でその場に座り込んでしまった。

「二階堂菫は……二年前に交通事故で亡くなった。俺を含めて、同級生はみんな彼女の葬式に参列した」

 不思議だ。凌空がこの先言わんとしていることが、手に取るようにわかる。

 心臓の音は晴陽の確信に同意するかのように、どんどん大きく、どんどん速くなっていく。

「葬式で、菫の父親が言っていた話を思い出した。……脳死だった菫の摘出可能な臓器はすべて、全国で移植を待っている患者に提供をしたって。菫もきっと喜んでくれるって」

 呼吸が苦しくなってきた。唇は渇き、頭も痛くなってきた気がする。

 それなのに、愛しい人が辿り着いた答えを、晴陽の心臓は期待をしながら待っているように感じた。

「晴陽。君の心臓はきっと……菫のものだ」

 震える声で指摘されたそれは、まだ凌空の憶測に過ぎないというのに、証拠なんて何一つありはしないのに、晴陽の体中の全細胞が肯定していた。