このくらいの季節の夜は気持ちがいい。

柔らかく、ほのかに甘い風が、僕の一日の疲れを優しく拭い去ってくれるようだ。

山に挟まれた道を黙々と歩く。緑と土の乾いた匂いと、潮風が混ざり合う。

僕は一度立ち止まり、夜空にうんと伸びをしてから再び歩き始めた。

丘の上にぽつんと佇むマンション。傍に立つ街頭が、ミモザの満開の黄色い花を、しっとりとライトアップしている。

やはり店の窓のカーテンはしっかりと閉められている。

よく見ると、この三階建てのマンションは二部屋しか電気が点いていない。

もしかして、あの二部屋と愛さんの店しか住人はいないのだろうか。

腕時計を見ると八時十五分。

愛さんどころか人の気配すらしない。

今夜は、海辺で出会った白杖の男性にさえ会えそうもなかった。
解ってはいたが、やはりほんの少し期待していた分、会えないのが残念だ。

昼間、小鳥遊からの電話のお陰で伸びたラーメンを食べる羽目になった僕の腹が悲鳴を上げた。

帰ろう。

踵を返したと同時に、黒いものが足元を横切り、慌てて避けようとして僅かにふらついた。

猫だ。黒猫がマンションの敷地から出て来たのだ。

みゃおぅ

僕に甘えるような声でひとつ鳴いた。

黒猫と言えば不吉な事を連想する人もいるらしいが、そんな事とはかけ離れた可愛らしい顔立ちをしている。

くりくりの瞳で、透き通るような綺麗な声。

近付いたら怖がるだろうか。

そう思って、僕はゆっくりとその場を離れた。

少し離れた所から振り返ると、猫はミモザの下で背筋をピンと伸ばして僕の方を見つめている。

「またね」

そんな猫に、僕は胸の前で小さく手を振った。