「殿下、大丈夫?」
「大丈夫なものか……」
「一旦落ち着きましょう。ちょっと離れて。ね?」
「嫌だ」
 短い拒絶と共に、詩夏をひしと抱き締める腕に力がこもる。
 近くの空き室に引きずり込まれて一刻あまり。その間、憂炎は何も言わずに詩夏を抱き締め、微動だにしなかった。
「ほら、私も瑛貴妃に平手打ちされて怪我してるし……」
「すまない。診せてくれ」
 憂炎はガバリと顔を上げ、慎重な手つきで詩夏の頬に触れた。「熱を持っている。あの女、思い切り殴ったな……」と唸ると、懐から小さな陶器の入れ物を取り出す。中には白い軟膏が入っていた。憂炎は手際良くそれを清潔な布に塗り、詩夏の頬に当てる。ひやりとして気持ちが良い。
「しばらくこうしていろ」
「ありがとう。慣れた手つきね?」
「王宮の侍医もどこまで信用できるかわからないからな」
「皇帝なのに?」
「皇帝だからだ」
 憂炎は短く答え、室内を見回す。雑多に積まれた櫃の上に詩夏を座らせ、自分は立ったままで詩夏と目を合わせた。それでやっと、視線の高さが同じくらいになった。
 憂炎は眩しげに目を細め、しばらく詩夏を見つめる。そうされると詩夏の心臓がドキドキと強く脈打った。久方ぶりに詩夏として対面したので緊張しているのかもしれない。
 憂炎がおもむろに口を開く。
「……何があったんだ」
「それが——」
 悪霊として呼ばれてからのことを説明する。話が進むほどに、憂炎の眉間の皺が深くなっていった。
「連理の姫を探さないと詩夏姐が消えるだと」
「そうなの。殿下、心当たりは無い? この娘が気になる、とか」
「詩夏姐以外で? 無いな」
「じゃあ……私は消えるしかないみたいね」
 さよなら、と片手を振ってみると、殺されそうな目で睨まれた。悪霊冗句(ジョーク)は不評らしい。
 憂炎は壁にもたれかかり、ぐしゃぐしゃと前髪をかき混ぜる。口から深いため息が漏れた。
「俺は連理の姫など不要だと考えている」
「どうして?」
「そのせいで人が死ぬ。詩夏姐のようにな。大体、豊穣を齎す連理の姫なんて本当に存在するのか? 珠蘭が連理の姫だったときだって、天候不順や大火災で国は荒れた。それは今も続いている。皇帝が気に入った女を娶るための建前だったのが、権力争いの材料に使われているだけじゃないのか」
「でも私はいないと困るのよ」
 詩夏は腕組みして思考を巡らせた。
「史実には連理の姫がいて国が整った時代もあったでしょう? その代だけ奇跡的に自然災害が起きなくて、連理の姫がいなくなった途端にまた国が荒れ始めたとか。大体、悪霊召喚の術が存在するのよ。連理の姫がいたっておかしくないわ」
「それはそうだが……」
「香麗は本当に深い傷を負ったの。それなのに私は生きている。傷痕見る?」
「いや、やめろ、よせ。俺に易々と肌を見せるな」
 襦裙の襟を緩めようとすると、憂炎がじりじりと壁際に後ずさった。本気でやめて欲しそうだったので詩夏も手を止める。確かに見て気分のいいものではない。
「……消えたくないのもそうだけど、私は香麗の願いを叶えてあげたい」
 行儀悪く足をぶらぶらさせて、ぽつりと呟く。
 窓から斜めに日が差して、室に漂う埃をきらきら輝かせていた。
 黙り込んで唇を引き結ぶ詩夏に、憂炎がふっと表情を緩める。憂炎の纏う空気が、どこか安堵したように柔らかくなった。
「変わらないな、詩夏姐は」
「ええ?」
「俺を助けてくれたときと同じだ。どんな姿になっても、魂は変わらないんだろう」
「……そう、かしら」
「そうだ」
 憂炎がこちらへ歩いてきて、また詩夏をぎゅっと抱き締めた。
「もう二度と会えないと思っていたのに」
 力強い腕に、低い声。なんだか知らない年上の男の人みたいだ、と胸が疼く。
「絶対に手放さない。俺はずっと、あなたを……」
 低く囁く声を抑えるように、詩夏は憂炎を抱き締め返した。ぽんぽんと背中を撫でる。
「ええ。じゃあ連理の姫を探してね」
「それは約束できないが」
 答える声には苦笑が滲む。
「あなたを失わないためなら、俺はなんでもしよう」
 それなら、と詩夏は一つお願いをした。