御渡りの事実は、瞬く間に後宮中に広まった。
 相手は翠明宮の最下級妃。顔だけは綺麗だが、他に目立つわけでもない。
 そうすれば当然、気に入らない勢力が出てくるわけで——。
「丁才人。今日はわたくしの茶会に来てくださってありがとう」
「はは……ありがとう存じます」
 後宮の中央庭園、女郎花の黄色い花々に囲まれた(あずまや)にて。小卓を挟んで目の前に座る美女に、詩夏は乾いた笑い声を上げた。
 彼女は瑛万姫(ばんき)。れっきとした貴妃で、普通なら才人の香麗とは口もきかないはずの高位の妃嬪だ。しかも、国母である珠蘭の縁戚の娘だという。珠蘭は万姫を皇后にしたくて仕方がないのだろう。
(そのことを、貴妃はどう思っているのか)
 卓の上に、白磁の茶器が置かれる。甘い花の香りのするお茶が注がれていた。
 万姫が杯を手に取って、優雅な仕草で口をつける。詩夏もそれに倣った。けれど飲むふりだけしてすぐに杯を下ろす。毒でも入られていたら堪らない。
 万姫の紅唇が笑みの形に歪んだ。
「丁才人はさすがに美しいわね。主上が御渡りになったというだけあるわ」
「……瑛貴妃こそ、女郎花も色褪せてしまう美しさです」
 にこりと笑って返す。万姫の眉がぴくっと跳ねた。
「調子に乗らないで頂戴ね」
 冷ややかに言い、ほっそりした指で杯を卓に置く。耳障りな音がガチャンと鳴った。詩夏の背中に冷や汗が流れる。
(これは苦手分野!)
 生前、詩夏は妃嬪同士の争いには関わらないようにしていた。翠明宮で匿う憂炎を守るためでもあったが、そもそも凡庸で野心もない詩夏は、寵愛を競うには向いていなかった。
(美しくてもこんな目に遭うのね……いや、美しいからこそか)
 げんなりしながらも、詩夏は微笑を絶やさなかった。連理の姫について聞き出す良い機会かもしれない。
「ご存じだと思うけれど、皇后に一番近いのはわたくし。先代連理の姫であり、国母である珠蘭様の血を引いているのですもの。主上に一夜の情けを賜ったからといって、あなたが特別というわけではないのよ」
「ええと、貴妃には比翼の印はあるのですか?」
「このわたくしへの返事がそれ?」
 万姫が眉尻を吊り上げるのに対し、詩夏は真剣な顔で頷いた。大真面目だ。こちとら連理の姫を見つけないと消えてしまうのだ。
(……憂炎の特別が誰か、とか、悪霊の私が介入していいことでは無いし)
 あの夜の、憂炎の切なげな面差しを追い払う。彼には早く愛すべき連理の姫を見つけてもらいたい。そしたら詩夏は消えずに済む。
 それに、その方が詩夏との思い出に囚われているよりずっと良いと思う。
 過去の記憶ばかり大切にするのは寂しすぎる。
 だが、当然ながら詩夏の態度は万姫の神経を逆撫でしたようだった。
「わたくしを愚弄しているのかしら」
 ぶるぶる震えながら万姫が唸る。
「たとえ比翼の印が顕れなかったとしても、皇后になるのはこのわたくし! あなたみたいな卑しい身分の女の出る幕は無いわ!」
「どうしてそんなに皇后になりたいのですか?」
 これは純粋な疑問だった。詩夏は穏やかな慎ましい生活で満足する性質で、過去の翠明宮での暮らしも、そう悪いものではないと感じていた。
 確かに贅沢はできなかったけれど、足りない食糧を補うために畑仕事をして、瑶琴を弾いて、憂炎に勉強を教えて、それで十分。蔡家で家族と暮らしていたときよりも、ずっと満ち足りていたように思う。
 しかし万姫はふふんと鼻を鳴らし、胸元に手をやって断言した。
「決まっているわ、愛されたいからよ」
「愛されたい……」
 その言葉は、なぜだか詩夏の胸に引っかかった。
 胸裏に家族の顔が浮かび上がる。結局、さよならさえ必要とされなかった。
 なんとなく、万姫の望みを理解できるかも——と口を開きかけて、続く言葉に閉口する。
「この国一番の男性に愛されるのってとっても素敵でしょう? 主上は美しいし、文句無しだわ!」
「それはよく分かりませんが」
 詩夏は首を捻った。
「皇后になったら、主上と共にこの国を守り支えていかなくてはならないでしょう? 並大抵の苦労ではなさそうです」
「あら、いいのよ。そんなの珠蘭様にお任せすればいいのだもの。わたくしは主上と後宮で楽しく過ごすわ」
「へえ」
 詩夏は笑顔で頷く。胸底で何かが爆ぜた。言ってはいけない、と頭ではわかっていたのに、口が勝手に動いていた。
「瑛貴妃、私、あなたには皇后になってもらいたくありません」
 別に詩夏は、憂炎の小姑を気取るつもりはないが。
 でもこの人はダメだ、と直感した。本能が嫌悪する。
 憂炎が誰を選んだっていいが、できれば彼と一緒に歩いてくれる人が良いと思う。過去の思い出なんてくすむくらいに、鮮やかな未来を示してくれる人がきっといる。いつか願った憂炎の幸いは、そういうところにあると思う。
 もう笑顔を作る気にはなれなかった。キッと万姫を睨み付ける。万姫が苛立たしげに顔をしかめて繊手を振りかぶった。
「なんですって? 平民妃ごときが不敬な!」
 パンと乾いた音が鳴った。詩夏の頬に熱い痛みが走る。万姫に命じられていたのだろう、周囲から女官がわらわら近寄ってきて、詩夏を取り押さえようとする。これからもっと酷い目に遭わそうというわけだ。
 だが詩夏は怯まなかった。万姫だけを見据え、襦裙の袖に手を突っ込む。
 そして。
「えいやっ」
 袖から二、三匹の蛇を取り出して、卓に向かって放り投げた。この時のために用意していたものだ。翠明宮近くの林で鈴々と一緒に捕まえた。悪霊なのになんて地味な仕事。どうせいびられるに決まっているのだから、反撃手段くらいは当然備えている。
 毒々しい色をした蛇が頭をもたげた瞬間、亭に女たちの悲鳴が響き渡った。
 阿鼻叫喚を潜り抜けて、詩夏はそそくさと逃げ出す。伊達に死に戻っていない。後宮の隠し通路は熟知している。
 近くの祠から隠し通路に入った。もう長く使われていなさそうで、天井から蜘蛛が落ちてきたり、湿った何かを踏んだりする。
「ギャーッ! 蜘蛛の子が口に入った!」
「そうか、平気か?」
「うう、もう吐き出しから大丈、夫……」
 答えかけてぴたりと止まる。隠し通路の出口、翠明宮付近の食糧庫の裏手だった。
 ギギ、と軋む首を動かして振り返る。そこには、やけに晴れやかな笑顔をした憂炎が腕を組んで立っていた。
「それは何より。ところで、丁才人はなぜ隠し通路を知っているんだ? 今あなたが使ったのは、皇族しか知らないはずの道だ。俺は詩夏姐にしか教えていない」
「あ、いや……たまたま見つけたので……?」
「皇族用の隠し通路が『たまたま見つかる』程度の作りなわけはないだろう? 存在を知らなければ通れないはずだ。誰に聞いた? 秘密を知る人間を生かしておくわけにはいかないな。もちろん、皇族から聞いたのであれば問題ないが」
 笑顔のまま憂炎は滔々と語る。だが目だけは全く笑っていなくて、詩夏は両手を上げた。
「わかりました。平和に話し合いましょう。——お久しぶり、殿下」