(って言ったのに、なんで皇帝なんかになってるの——⁉︎)
 完全に硬直した詩夏は、牀榻の上にちょこんと座っていた。憂炎は隣に腰掛け、俯く詩夏の顔を差し仰ぐようにしている。凄みを帯びるほどの真顔で、菫色の虹彩の中、黒々とした瞳孔が開き切っていた。美形の真顔は怖い。
「詩夏姐ではないと?」
「イヤ、違いますね……私は丁香麗なので……詩夏という方は存じ上げませんね……」
「だが、昨晩、瑶琴を弾いていただろう」
「え? あぁ、はい」
「それで分かった。あの音を出せるのは詩夏姐しかいない。確かに見た目は違うが、何かの術を使って蘇ったんだろう。王宮の府庫にもそういう伝承があった」
(なんで大正解を出せるのよ!)
 涙目になりながら詩夏は目を逸らす。姉がよくやっていたように、口元に片手を当てて、
「まあ、私にはなんのことだか分かりません。そんな恐ろしいことを仰らないでくださいまし」
 そうして視線を斜め右下に向けると、大体の男は黙って姉の言うことを聞いていた。香麗の美少女顔なら効果は抜群だろう。というか効いてくれ! 頼むから!
 だが、憂炎は微塵も心を動かされた様子もなく、眉間に皺を寄せている。
「翠明宮から瑶琴の音を聞いたのは、昨晩で二度目だ。一度目は確かに詩夏姐の音色ではなかった。すぐに立ち寄って、俺はその時の丁香麗と話した。気弱そうだったが人の心の分かる人間だった。その瑶琴は大切なものだから弾かないでくれと頼んだら、すぐに了承してくれた」
 だから香麗は瑶琴を弾かないと宣言していたのか、と合点がいく。別に呪いの瑶琴ではなかったわけだ。
「あのときの丁香麗は約束を破るようには思えなかった。それなのに再び瑶琴の音が聞こえて、それが詩夏姐の音色だ。俺が渡ってきた理由も分かるだろう。何があった? 話してくれ。俺は詩夏姐の力になりたい」
 憂炎の力強い言葉に、詩夏は目を合わせることができなかった。
「あの、大切な瑶琴を弾いてしまい申し訳なく……」
「構わない。十七年ぶりに、懐かしい音を聞けて嬉しかった」
 間近で憂炎が柔らかく微笑む。過ぎた時を惜しむような、失くしたものを数えるような、大人びた笑みだった。
 そんな風に笑うのか、と詩夏は瞬く。言われてみれば十七年も経っているのだ。詩夏は二十歳で死んで、今は十八歳の香麗の体に取り憑いている。けれど憂炎はあのとき九歳だったから、もう二十六歳になっているのだ。
 かたわらに座る憂炎は背も伸びて、体つきも逞しくなっている。両腕にすっぽり収まった小さなあの子はどこにもいない。
 なんとはなしに、取り残されたような寂しさを覚える。
 ——と同時に。
(お、大きくなったねえ〜‼︎)
 ぶわりと泣きそうになって、詩夏はますます顔を背けた。胸底に温かなものが湧き出てくる。脳裏に、翠明宮で憂炎と過ごした日々が次々に浮かんでは消えた。
(あんなに小さくて痩せっぽちだった子が、こんなに立派になって……っ‼︎)
「詩夏姐?」
「いえ、それは違いますが」
 訝しげな憂炎に、きっぱり首を振る。ものすごく姉心みたいなものが生まれているがそれはそれだ。
 ここで蔡詩夏だと明かしてもややこしいことになりそうだった。そもそも詩夏の目的は連理の姫を探すことなのだし。とりあえず詩夏の持つ武器で切り抜けよう。というより、香麗に借りた武器で。
「……主上」
 淑やかに言って、ぴたりと憂炎に身を寄せた。憂炎の体が強張る。
「後宮へ御渡りになってくださって嬉しいですわ。楽しい夜にして差し上げます。ですから、そのまま後宮で連理の姫を探してくださいましね」
 なーにが楽しい夜だ、と焦りながら、そんなことおくびにも出さずに詩夏は微笑う。香麗の体なのに申し訳ない気持ちが湧いてくるが、連理の姫は必ず探し出すからどうか許して欲しい。
(とはいえこれだけの美少女に迫られれば、憂炎とて平静ではいられまい! それで今夜はめちゃくちゃにして全てをウヤムヤにしよう!)
 憂炎が唇を引き結び、じっと詩夏を見据える。その長い指が、繊細な手つきで詩夏の前髪を払った。
 露わになった詩夏の表情を見定めるように瞳を眇め、
「……あなたは連理の姫ではないのか?」
「比翼の印がありませんもの……でも、本当にそうか、確かめてみます?」
 嫣然と適当こいたところで、はたと思い出す。白襦袢の合わせを思わず手で押さえた。
 実は胸元に、香麗が殺害されたときの切り傷が残っている。
(まずい、これを見られるとまた丁香麗=蔡詩夏説が復活する!)
 生きているのがおかしいくらいの、かなり大きな傷痕だ。疑っている相手には誤魔化しが効かない。
 詩夏の焦りを見抜いたのか、憂炎が意地悪げに唇の端を吊り上げる。詩夏の肩を押し、体を牀榻に押し倒した。そうして無防備な詩夏に覆い被さるようにして、
「……では、確かめてみるとしよう」
「あ、いや、その……」
 胸元を押さえる詩夏の手に、憂炎の手がかかる。万事きゅうす。詩夏はぎゅっと目を瞑り、いくつもの言い訳を考え始めた。
 静寂が寝室に広がる。憂炎の髪の一房が、詩夏の頬にこぼれ落ちる。吐息が唇を掠めた。
 長い間があった。
 すぐ近くで、くっと憂炎の喉が鳴る。何が、と目を開けると、憂炎が声を上げて笑い出したところだった。
 大きく肩を揺らし、詩夏の上から退きながら、
「そんなに怯えるな。俺に嗜虐趣味はない」
「え、あ、えぇ……?」
「そうか、詩夏姐にも苦手なものがあったんだな」
「私は詩夏ではありませんが」
 おずおずと身を起こし、ホッと息を吐く。何がなんだか分からないが、とりあえず窮地は脱したようだ。
「あくまでも詩夏姐ではないと言い張るんだな。ならば今夜は嘘に乗ってやろう。その可愛らしい反応に免じて」
 憂炎が優しく微笑み、詩夏の頬を愛おしげに撫でる。その仕草の甘さに詩夏はウッと呻きたくなった。
(私の間抜けな反応さえも可愛さに変える香麗の美少女っぷり、恐るべし!)
 ひっそり慄いていると、憂炎が名残惜しげに腰を上げた。
「俺は正寝に帰る。安心して眠れ」
 そう言って寝室の扉へ向かう背に、我に返って「待ってください」と声をかける。
 一つだけ、とても気になることがあった。
「あの、主上にとって詩夏とはどのような存在なのですか?」
 扉を押し開けていた憂炎が振り返る。燈籠の光はそこまで届かず、薄闇の中、菫色の瞳が底光りしているのだけが分かった。
 真摯な声が、夜の空気を低く震わせる。
「……俺の想い人だよ。ずっとな」