主上を出迎えるには細々とした決まりがあって、鈴々は力を尽くして翠明宮を綺麗にし、香麗の世話を焼いてくれた。
「これで大丈夫です! 香麗様はお美しいですから、絹の白襦袢だけでも映えますわ!」
 寝室の鏡の前で詩夏の髪を梳っていた鈴々が言う。詩夏は曖昧に頷いた。
 鏡に映る香麗は、簡素な化粧に下ろし髪、纏うのは薄絹の白襦袢一枚だというのに恐ろしく可憐だ。確かに、微笑むだけでどんな男も落とせそうなほど。
 けれど内心、詩夏は頭を抱えていた。
(御渡りとは無縁だったから、房中術なんて全部忘れたわ! どうやって出迎えるんだったっけ⁉︎ 何か挨拶するんだったかしら?)
 鈴々に聞くわけにもいかない。大体、急な御渡りだったから今までろくに話す暇も無かった。
 詩夏の髪の先まで椿油を塗り終えると、鈴々は慌ただしく一礼した。
「それでは私はこれで失礼しますね。頑張ってください!」
「ああっ、待っ……」
 無情にも扉が閉まる。寝室に取り残された詩夏は、一人呆然と立ち尽くした。
 しかし、自失する暇もあらばこそ。すぐに足音が聞こえてきて、詩夏はとりあえずその場に膝をついて拱手する。
(ええい、これだけ美少女なら不興を買っても殺されることはないに決まってる! 雪花姉様だってそうだったんだから!)
 やがて、頭を垂れた詩夏の頭上で、ゆっくりと扉の開く音がした。
 誰かが寝室に入ってきた。女にはあり得ない、重い足音が夜気を揺らす。
 視界の端に、長袍の裾がひらめく。絹の靴の爪先が裾から覗いていた。
「——面を上げよ」
 低い声だった。聞き覚えはない。
 詩夏は恐る恐る顔を上げる。それから悲鳴を噛み殺した。
 詩夏を見下ろすのは白皙の美貌の男。皇帝にしか許されない紫色の袍を着こなし、漆黒の袴を履いている。
 形の良い眉の下、詩夏に向けられる切れ長の瞳は菫色で、鋭い光が宿る。薄い唇は何かを堪えるように噛み締められていた。
 長い黒髪は無造作に背に流され、乱れた幾筋かが頬にかかっている。だが男はそんなこと気にも留めていないようだった。
 詩夏には見覚えがある。正確には、彼の幼い頃を知っている。
 ——かつて詩夏に懐いていた、七番目の皇子。
 男は色の失せた唇を開き、確信を持った口調で言った。
「……詩夏姐、だな。俺のことは、覚えているか」
 詩夏の喉がごくりと鳴る。とっさに首を横に振る。
 その男は、名を憂炎(ゆうえん)といった。