冷たい風が吹いて、詩夏の髪を撫でていく。金木犀の香りが鼻先を掠めた。黄泉は甘い匂いがするらしい。
「……って、おかしいでしょう⁉︎」
詩夏は瞼をこじ開けるなり跳ね起きた。ぐるりと辺りを見回すと、どうやら林の中に寝転がっていたらしい。銀杏が黄金色の葉をしきりに降らし、その隙間から、午後の柔らかな日が差していた。
「ここ、後宮……?」
木立の向こうに望む大きな湖、その上にかかった朱色の太鼓橋を見て、詩夏は呟く。見覚えのある景色だった。後宮の西の隅、めったに人の立ち寄らない場所。
ふと、胸元がぐっしょり濡れているのに気付いて、詩夏は自分の身をあらため——そして絶叫した。
「なんでこんなに血塗れなの⁉︎」
まとう襦裙は真っ赤に染まり、胸は鋭利な刃物で切り裂かれたようになっている。しかも地面には、これまた血で描かれたらしい方術の陣が敷かれており、これはまるで——。
「悪霊召喚の術……⁉︎」
後宮に出入りしていた方術士から聞いた覚えがある。なんでも、自分の命と引き替えに悪霊を呼び、願いを叶えることができるとか。願いを叶えられれば、悪霊は現世に留まることができるが、失敗すれば二度と現世には現れられないとか。
「死んで悪い夢でも見てるの……⁉︎」
べチッと自分の頬を叩いてみる。痛い。夢じゃない。
これは現実だ。
どうやら詩夏は、誰かの手によって悪霊として黄泉から魂を引き戻されたらしい。とても信じられないが、そうとしか思えない。
とにかく、血がべとついて気持ち悪かった。手だけでも洗おうと木立を抜け、湖に顔を映して——三度、叫んだ。
「顔が違う! これは誰⁉︎」
湖面に映っているのはとんでもない美少女だった。滑らかな白い頬、すっと通った鼻筋、濡れたような黒瞳を長い睫毛が縁どっている。黒々とした髪は長く艶やか。血に塗れていても、なお損なわれない花のかんばせだった。
(この娘が私を呼んだの⁉︎ こんなに美人なのにどうして悪霊召喚を⁉︎ というか私は、こんな美人の望みを叶えないと一人で消えるの⁉︎ そんなの絶対に嫌!)
愕然としたところで、袖からひらりと何かが落ちる。布切れのようだった。何気なく手に取って、詩夏は目を見開く。
そこには、血文字でこう書かれていた。
『連理の姫を探して。そうしなければ、あなたは消える』
ところどころ掠れた、でも必死に書いたような震えた文字だった。
詩夏は息を飲み、林の方へ目を向ける。誰も来ない林、大きく切り裂かれた襦裙、血で描かれた招魂の陣。
人の声は聞こえず、銀杏の葉だけがしんしんと降りしきる。
状況から推測するに、答えは一つ。この娘は誰かに殺されかけて——けれど諦めず、願いを託して詩夏を呼んだのだ。
たった一人、死に瀕しても。
(……きっと、すごく怖かっただろうに)
首元に、絹紐の感覚を思い出す。勝手に呼ばれて悪霊扱いされて、願いを叶えなければ消えるだなんて、言いたいことは山ほどある。
でもその気持ちだけはよく分かったから。
(その願い、私が叶えましょう)
詩夏は布切れを握り締めて、その場に立ち上がった。
「……って、おかしいでしょう⁉︎」
詩夏は瞼をこじ開けるなり跳ね起きた。ぐるりと辺りを見回すと、どうやら林の中に寝転がっていたらしい。銀杏が黄金色の葉をしきりに降らし、その隙間から、午後の柔らかな日が差していた。
「ここ、後宮……?」
木立の向こうに望む大きな湖、その上にかかった朱色の太鼓橋を見て、詩夏は呟く。見覚えのある景色だった。後宮の西の隅、めったに人の立ち寄らない場所。
ふと、胸元がぐっしょり濡れているのに気付いて、詩夏は自分の身をあらため——そして絶叫した。
「なんでこんなに血塗れなの⁉︎」
まとう襦裙は真っ赤に染まり、胸は鋭利な刃物で切り裂かれたようになっている。しかも地面には、これまた血で描かれたらしい方術の陣が敷かれており、これはまるで——。
「悪霊召喚の術……⁉︎」
後宮に出入りしていた方術士から聞いた覚えがある。なんでも、自分の命と引き替えに悪霊を呼び、願いを叶えることができるとか。願いを叶えられれば、悪霊は現世に留まることができるが、失敗すれば二度と現世には現れられないとか。
「死んで悪い夢でも見てるの……⁉︎」
べチッと自分の頬を叩いてみる。痛い。夢じゃない。
これは現実だ。
どうやら詩夏は、誰かの手によって悪霊として黄泉から魂を引き戻されたらしい。とても信じられないが、そうとしか思えない。
とにかく、血がべとついて気持ち悪かった。手だけでも洗おうと木立を抜け、湖に顔を映して——三度、叫んだ。
「顔が違う! これは誰⁉︎」
湖面に映っているのはとんでもない美少女だった。滑らかな白い頬、すっと通った鼻筋、濡れたような黒瞳を長い睫毛が縁どっている。黒々とした髪は長く艶やか。血に塗れていても、なお損なわれない花のかんばせだった。
(この娘が私を呼んだの⁉︎ こんなに美人なのにどうして悪霊召喚を⁉︎ というか私は、こんな美人の望みを叶えないと一人で消えるの⁉︎ そんなの絶対に嫌!)
愕然としたところで、袖からひらりと何かが落ちる。布切れのようだった。何気なく手に取って、詩夏は目を見開く。
そこには、血文字でこう書かれていた。
『連理の姫を探して。そうしなければ、あなたは消える』
ところどころ掠れた、でも必死に書いたような震えた文字だった。
詩夏は息を飲み、林の方へ目を向ける。誰も来ない林、大きく切り裂かれた襦裙、血で描かれた招魂の陣。
人の声は聞こえず、銀杏の葉だけがしんしんと降りしきる。
状況から推測するに、答えは一つ。この娘は誰かに殺されかけて——けれど諦めず、願いを託して詩夏を呼んだのだ。
たった一人、死に瀕しても。
(……きっと、すごく怖かっただろうに)
首元に、絹紐の感覚を思い出す。勝手に呼ばれて悪霊扱いされて、願いを叶えなければ消えるだなんて、言いたいことは山ほどある。
でもその気持ちだけはよく分かったから。
(その願い、私が叶えましょう)
詩夏は布切れを握り締めて、その場に立ち上がった。