「——いや、それは貴様のものではない」
 威厳のある声に、役人たちがサッと道を開ける。立ち並ぶ人々の隙間から見えた長い髪、優雅にひらめく冕服の袖に、詩夏は両手で口を覆った。
 そこにいたのは憂炎だった。
「な、なぜじゃ⁉︎」
 珠蘭が顔を引きつらせて叫ぶ。憂炎は堂々とした足取りで玉座の前まで進むと、すらりと剣を抜いて珠蘭の鼻先に突きつけた。
「あいにくと、俺は幼少期より毒には慣れている。貴様が鈴々に命じて盛らせた毒など甘く感じるほどにな」
「鈴々⁉︎」
 声をあげたのは詩夏だ。見ると、憂炎の背後には鈴々が影のように付き従っている。その表情は詩夏からは窺えないが、背中は硬く張り詰めていた。
「珠蘭様、あなたは私に命令しましたね。香麗様はお変わりになった。元に戻すために、この薬を盃に入れて飲ませよと」
 鈴々が低く言う。鈴々からは聞いたことのないおどろおどろしい響きに、詩夏はハッと息を呑んだ。
「馬鹿馬鹿しい——私の香麗様はもういないっていうのに!」
 鈴々がこちらを振り向いた。愛らしい顔は泣きそうに歪み、丸い瞳が充血していた。
「香麗様が変わったのは存じております。何が起きたのかなんて、私にはどうでもいい。今の香麗様は昔の香麗様を大切にしてくれるから。……それなのに、あなたは私の主人を二度も奪おうとした! 許せるものか!」
 憂炎が言葉を継ぐ。
「珠蘭は元々、丁香麗を殺そうとしていた。万姫を皇后に据え、国母の座から朝廷に君臨するのに、彼女が邪魔だと勘づいたからだ。貴様と万姫が都の工房師に頼んで、手に特殊な焼き印を入れて比翼の印を捏造したこともわかっている」
 突きつけられた切っ先の向こうで、珠蘭が悔しげに歯を剥き出した。
「妃嬪の命など塵芥と思ったか? 鈴々はすぐに俺に知らせてくれた。だから俺は一計を案じたわけだ。香麗ではなく、俺が毒を飲む。その機を貴様が逃がすはずが無い。俺は貴様を最も重い罪で処刑場に送ってやりたかった。玉座の簒奪という大逆でな」
「おのれ! 誰ぞ、此奴を捕らえろ! 妾に恩義を感じる者はおらぬのか!」
 珠蘭が喚くが、誰一人として動く者はいない。憂炎は軽々と剣を振ると、なおも喚き続ける珠蘭を峰打ちにして黙らせた。
 それから憂炎の合図で兵士たちがやって来て、珠蘭を玉座から引き摺り下ろす。憂炎はその様を冷酷な瞳で見送っていた。
 詩夏はその間中、呆然と立ち尽くすしかできなかった。思いがけぬことの連続に硬直していた頭が、やっと正常に働き出した気がして、大きく深呼吸する。何を言えばいいのかもわからないが、とにかく。
(憂炎が無事で、本当に良かった……)
 まだ心臓が痛い。胸元を両手で押さえていると、憂炎がこちらを振り返った。険しかった眼差しを緩めて、詩夏を見つめる。