丁香麗が蓮月国の玉座の間に入ったのは、その日が初めてだった。
 玉座の間の美しい装飾も、詰めかけた役人や宦官の好奇の視線も、何も気にならなかった。
 なぜなら、彼女が気にすべきことはたった一つしかなかったからだ。
「ゆ……主上はご無事なのですか⁉︎」
 玉座の間に引き立てられた詩夏が最初に言ったのは、それだった。
 辺りに女の高笑いが響き渡る。玉座の隣に据えられた椅子に座る、珠蘭のものだった。
「とんだ女狐がいたものじゃの。自分で主上に毒を盛っておいて、よくもぬけぬけと言えたものよ。可愛い顔をして腹黒い手を使いよる。斬首がお似合いじゃろ」
 憂炎が倒れた後、詩夏は皇帝への毒殺容疑で捕縛されたのだった。反論する間もなく珠蘭の前に引き出されて今に至る。
 詩夏は背筋を伸ばし、珠蘭を睨んで声を張り上げた。
「私は毒など盛っておりません!」
「そうかえ。じゃが、そなたの女官が主上の盃に毒を入れたと証言する者がおる」
「なんですって……?」
 宦官に連れられて現れたのは、以前翠明宮から追い出した女官二人だった。彼女らは袖で顔を覆い、よく通る声で口々に言った。
「私たちは香麗様に嫌われてしまいましたけれど、翠明宮の他に行き場もなく、密かに様子を窺っておりましたの」
「あの夜、鈴々が御酒の用意をしているのが、花窓からハッキリ見えましたわ。とても思い詰めた顔をして、小瓶の中身を盃の一つに入れておりました」
「その後、主上がお倒れになったと聞いてすぐに分かりました。あれは香麗様に命じられた鈴々が、主上の盃に毒を入れた決定的な場面だったのだと。鈴々には主上を毒殺する理由がありませんし、何より鈴々は香麗様をとっても慕っておりましたから」
 役人たちがざわめく。珠蘭が痛ましげに首を振った。
「そういうことじゃ。鈴々の行方は知れぬが、それもそなたの仕業か?」
「ち、ちが……」
 音を立てて顔から血の気が引いていく。ぐわんぐわんと耳鳴りがする。
(まさか、鈴々が私を陥れようと?)
 鈴々が香麗を慕っているのは本当だ。そこに偽りはない、と思う。
 だが、悪霊になって蘇った詩夏についてはどうだろう。
 詩夏が蒼白になっているうちに、裁きは進んでいく。
「万姫に比翼の印が顕れて焦ったか? そなたはずいぶん主上に目をかけられておったようじゃからの。いずれは皇后にでもなれると夢見たか? ハ、平民風情が思い上がるな」
 珠蘭が唇に嘲笑を浮かべる。それから頬杖をつき「それに、そなたは万姫にも危害を加えたな」
 珠蘭に呼ばれ、人垣の後ろから姿を表したのは万姫だった。その身には、場違いなほど華やかな紅色の襦裙を纏っている。
「せっかくわたくしが連理の姫になったのに、主上が殺されてしまうなんて! 恐ろしいわ。でも、犯人が丁才人というのは驚かないわね。だって以前にも怖い目に遭わされたもの」
 手の甲に刻まれた比翼の印を見えるようにするためか、大げさに両手で頬を押さえる。
「お茶会にお誘いしたときのことよ。楽しくお話ししていたら、突然丁才人が蛇をけしかけてきたの。わたくしや女官は震え上がってしまったけれど、彼女は全然気にしないで立ち去ってしまったのよ。丁香麗は血も涙もない悪女だわ!」