「怒っている……よな」
「ふふふ」
 詩夏は何にも言わずに、ただ笑うに留めた。憂炎が本気で困った顔をしているのがなんだかおかしい。一国の皇帝を悩ますなんて、立派な悪霊っぷりだ。
 でもちょっと可愛そうになってきたので、ここらで勘弁してあげよう。
「冗談よ。でもああいうのはもうやめてね」
「約束する。二度としない」
「それ以外なら憂炎の好きにしていいから」
 憂炎は深々とため息をこぼし、片手で目元を覆った。
「……この十七年で今が一番忍耐力を試されている気がする……」
「まさか。皇帝になるまでの日々を軽く見ないで」
「詩夏姐こそ俺の気持ちを軽く見るな」
 真剣な顔をした憂炎が、詩夏の肩を引き寄せる。顔を上向かせられて、とっさに目を瞑った。気配が近づく。鼻先に吐息が触れた。
 ——もうすぐ唇が重なる。
 そのとき、室の扉がほとほとと叩かれた。
「主上、御酒をお持ちしました」
 鈴々の声だった。
 反射的に目を開ける。眼前の憂炎は苦しげに眉間に皺を寄せていた。喉の奥で獣じみた唸り声をあげ、詩夏の肩を掴む手に力がこもる。
 詩夏は小首を傾げて訊ねた。
「……いいの?」
「どっちがだ。……詩夏姐絡みで思い通りになったことが一度も無い」
「えっと、ごめんなさい?」
「そういうところだ」
 憂炎は牀榻からするりと床に降り立つと「鈴々、入れ」と扉の外に声をかけた。すぐに鈴々が入ってくる。彼女は両手で盆を捧げ持っており、その上には白金の盃が二つ置かれていた。どちらにも澄んだ酒がなみなみ注がれている。
「御所望のものでございます」
「ああ、ありがとう」
 酒なんて頼んでいたのか、とぼんやり思い、詩夏はその様子を見るともなしに眺めていた。
 憂炎が盃の一つを取る。躊躇なくそれを口元に運び、喉をそらして一息に飲む。
 一瞬の静寂があった。
 憂炎が一度、口に手を当てて咳をする。その指の隙間から、真っ赤な液体が流れ落ちるのを詩夏は見た。
「……えっ」
 呟く間に、憂炎がその場に崩れ落ちる。くずおれる体を長い黒髪が追いかける。宙に尾を引くその軌跡が、詩夏の瞼の裏に焼き付いた。
 室に響く甲高い悲鳴が、誰のものか分からなかった。侍医が来て、兵士が雪崩れ込んできて、詩夏は憂炎と引き離されて——。
 暗転。