「でも、比翼の印があったのでしょう」
「そんなものはいくらだって偽造できる。珠蘭が跋扈する状況で、瑛万姫を貴妃に迎えるわけにはいかない」
 憂炎が手を伸ばし、詩夏の両肩を掴んだ。
「これ以上、珠蘭の専横を許すつもりはない。この国は今、どこに行っても苦しみと死ばかりだ。今日もどこかで、本当なら死ななくていいはずだった民が死んでいる。俺が詩夏姐を失ったように、誰かが大切な人を永遠に亡くしている。俺はそれを変えたい。どうか共に同じものを見て欲しい」
 燈籠の灯火が、音を立てて揺れる。これ以上なく真摯な憂炎の願いに、詩夏は立ちすくんだ。
 草木も寝静まり、葉擦れの音一つ聞こえない。室内を満たす静寂が耳に痛い。
「……どうして」
 やっとこぼした詩夏の声は、干からびたようにざらついていた。
 詩夏はこみ上げてくるものを飲み下し、咳払いをして言い直した。
「どうして私にそんなことを言うの。私は……とても無力なのに」
「俺があなたを愛しているからだ」
 間髪入れずに応えがあって面食らう。思わず見上げた先、そら恐ろしいほど真剣な瞳とぶつかって、詩夏は息を飲んだ。
「想い人だと言っただろう。一度も考えたことが無かったのか? 無かっただろうな、詩夏姐にとって俺はただの可哀想な子供だっただろうから」
 強い光を宿した双眸が、視線を逸らすことを許さない。「だとしても」憂炎の手に力が込められた。離すまいとするように。
「俺にとっては、詩夏姐がたった一人の人なんだよ。誰かと食べる食事の味も、自分のために奏でられる瑶琴の音の柔らかさも、与えられた全てを失う絶望も、何もかもあなたが教えたんだ。——これで愛さずにいられるわけがないだろ」
 一言一言紡ぐたびに、心臓から血が滴るような告白だった。
 詩夏は声を失う。目の前の男が、一体誰なのかわからない。
 そんな詩夏の様子を窺って、憂炎は哀しげに笑った。
「どうか俺の皇后になってくれ。頷いてくれさえすれば、俺は全てからあなたを守る」
 その瞬間、真っ先に思い浮かんだのは。
(私が美しくなくても、憂炎は同じことを言ってくれたの——?)
 なぜだかそれは、この世にはもういない蔡詩夏の声でもって脳内に響いた。
 美しくない方、死んでもいい方として差し出されて、一人ぼっちで死んだ少女。
 憂炎が求めているのは、本当に詩夏なのだろうか?