『颯霞────ッ!!!』
俺の名前を叫ぶ父の激しい声が聞こえる。いつも俺は父に守られていて、その温かくて大きな腕の中で安心したように笑ってばかりいた。
それが泣きたくなるくらい幸せで、いつも心優しい母と駄目なことはきちんと駄目だと言ってくれて、俺を全力で守ってくれる強い父に囲まれて幼少期の真っ只中を謳歌していた。
それも、今日で終わり。頭が真っ白になって、目の前が真っ暗になって、俺の幸せな未来の扉はパタリと戸を閉めてしまう。
その、前に─────。
『お前は、颯霞だけは死なせない……っ!!』
父の大きくてたくましい手が、俺の腕を掴んだ。崖の砂岩が父が手をついている部分からゴロゴロと崩れていく。
三歳の子供を掴み上げるのは難しいことではなく、父は難なく俺を地上へと引き上げてくれた。けれど、事態はそこからだった。
昨夜の雨に濡れて湿っていた土が、父という成人男性の力に耐えきれなくなったのか、一瞬で手をついていた崖の一部なくなった。
崩れていくという表現よりも、もっと早く、それは一瞬にして姿を消した。父が気付くよりも早かった。支えられるものが何もなくなった父は、俺の前から姿を消していた。
『父、上……っ?』
ああ、俺は一度だけ……いや、三歳の頃までは何度も何度も、大好きな父親のことを『父上』と呼んでいた───。
いつしか父が前のようではなくなって、俺のことも母のことも見捨てたどうしようもないクズ男だと思い込んだ。
父上がまるで別人のようになっていくのが怖くて、もう俺に父親としての愛情を注いではくれないのかと勝手に裏切られた気持ちになって、それが心の底から悲しかった。
『ぐぁ゙……ッ、!!』
『…っ!ち、父上……っ!?』
必死に崖の端を掴んで手を離せば川に落ちるというぶら下がっている状態の父上の呻き声が聞こえてきた。
父が死んでしまったと絶望に駆られて涙も叫び声も出せなかった俺は、一瞬で生気を取り戻したようにハッと顔を上げた。
『颯霞…っ、そこを離れろ!ここは危険だ、私は大丈夫だから』
『…は、はい……っ』
声はするのに未だに父の顔が見えないのが不安だった。けれど、俺は幼いながらにここにいたら父のように危険な目に遭うとどこか理解していたから、素直に言うことを聞いた。
父上は異能者ならではの常人では考えられないほどの力で、崖っぷちから落ちそうなところを腕の力だけで地上へと降り立った。
そのうちに母上が真っ青な顔をしてこちらの方へ駆け寄ってきた。必死に俺の名を叫び、震える手で俺を抱き上げた母上。
母上は泣きながら俺と父の名を呼び、安心したように笑っていた。この出来事を思い出したのは、今の俺がこんなにも弱りきってしまっているからだろうか───?
あの男の名さえ思い出したくないのに、久しぶりに三歳の頃を思い出してしまった。気分がさっきよりも沈んでいくような感覚を覚え、それと共に急激な眠気に襲われる。
七海さんが俺のためにお絞りを持ってきてくれているから、今はまだ眠りたくないのに……。七海さんと一緒にいられる時間は限りなく少ない。
七海さんのくれる優しさを、一心に感じていたい。それでも俺の瞼はその強い思いに逆らってどんどん重くなっていく。そっと瞼を閉じて、眠りの中に落ちていく。
視界の端で七海さんがお盆に乗った冷えたお絞りを持ってこちらに歩いてくるのが見える。俺の視界が真っ暗になって、そこで意識を完全に手放した。
◇◇◇
二日ほど前、私の所にある人物が訪ねてきた。いつも通り刀剣の修業に励み、一心に刀を振っていたある昼の日のこと。
その日、颯霞さんは突然建宮という宮に現れた異形が人を害したという知らせを受け、それを討伐するという任務を遂行するためにわざわざ街に出向いていて、屋敷にはいなかったのだ。
今はもうすっかり冬も深まって、夕方が過ぎてからは修練することが出来なくなっている。私は最後の刀を振り、試斬で用いた巻藁を左から右に真っ直ぐと斜めに切った。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ────……。
『………、!誰だ』
額を流れた汗を布で拭っていると、どこからか人の砂を踏む足音がした。私はすぐに鞘から刀の柄頭を出す。先程音がした方に厳重に目を凝らし、音の正体を探る。
氷織家の庭に一体誰が忍び込んだと言うの……?
『────(エマ)』
しなやか、という表現が似合うようなネイティブの英語で、聞こえてはいけない“その名”を耳にした。その瞬間、体中がゾワリと泡立ち、今すぐに逃げ出したい衝動に駆られる。
な、んで─────。
なぜ、貴方のような人がこんな所にいるの……っ?
いやだいやだ……っ、嫌だ!!今の声は幻だと思いたい。だって、こんなこと、駄目だもの。そう何度頭の中で抗おうとしても、私の目の前にゆったりと佇んで優美に微笑んでいるそのお方を見れば、もう今起きている現実を否定することは出来ない。
『ヴィラン皇子……』
なぜ貴方がここに……。私はスッと表情を変え、まるでよくないものを見るような、そんな蔑んむ瞳を、凍てつく視線を向けた。
『(エマ・シャーロット姫、この僕が貴女を遥々ヴィステリア王国からお迎えに参りました。ヴィラン・ラ・モニークと申します)』