「あ、………」
七海さんの腕を咄嗟に掴もうとしていた手は、情けなく宙を彷徨い、俺のお腹の上へと戻ってきた。そして、七海さんが消えていった隣の部屋の扉へと目をやり、ズキン───ッと胸が痛んだのが分かった。
七海さんに隠し事をされているというのは、もうずっと前から分かっていたことじゃないか。
今更どうして、俺はこんなにも傷付いているんだ。
こんな気持ちになったのは、幼きあの残酷な時と同じ────。俺の名字が、まだ“如月”だった頃と同じだった。
◇◇◇
泣きたくなるほど温かな温もりに包まれて、言いようのない幸せに浸り続けていられた、この世界に生まれたての赤子。
その赤子は世界の穢れを一切知らず、その純粋無垢な瞳を大好きな父親に向けて、罪深きほど無邪気に笑った。
幼き赤子を大切に胸に抱いて決して離そうとしなかった温厚で優しい瞳を持つ彼は、赤子のほっぺたに実の息子を本当に愛おしく思っているような、そんなキスを落とした。
如月砂月───、あの男は、氷織茉吏と氷織颯霞を、心の底から強く、深く愛したたった一人の情熱的な男だったのだ。
『茉吏、今日は手伝いに何を作らせようか』
手伝い、というのは如月家に仕えていたお手伝いさんたちのことで、砂月は朝、昼、夜毎日、俺の母の茉吏が食べたいと思うものを作らせていたらしい。
俺がまだ一、二歳の頃、砂月の女遊びは始まっていなかった。だけど俺はそんな幼き頃のことを覚えているはずもなく、目線の先の出来事だけに囚われ、実の父であった男を殺してしまったのだ。
───どうか、俺がしたことは間違いではなかったと言ってくれ。
母を傷付け、家族さえ蔑ろにした最低な男に、生きている価値なんてなかったと言ってくれ……。父を斬りつけた時の気味の悪いぐちゃりとした感触、血生ぐさい臭い。
俺がこうして誰かに赦しを請おうとするのは、きっとあの出来事を思い出してしまったからだ。俺がまだ三の頃、あの男は俺を命懸けで守ったことがあったという。
そう言えば、あの日もこんな風に熱に苛まれていたんだったな……。あの日の前日は三ヶ月ぶりに家族揃って俺のために川遊びに行くことになったから、興奮してずっと眠れなかった。
朝、目を覚ましたら体がダルくて動かそうと思っても家容易には動かせないくらい、全身に熱が浸透していた。だけど、熱があることを両親に知られれば川遊びには行けなくなってしまう。
そう思った俺は、熱があることを決して両親に知られないように、最善の注意を払いながら出掛けたのだ。
───けれど、それが間違いだった。
熱があるのだと、正直に言えば良かった。変な意地を張らずに、川遊びを諦めれば良かった。
その後は考えられることだろう。熱が体を侵食していくにも関わらず、久しぶりの一家全員でのお出かけに浮かれ、岩ばかりの足場にも気をつけずに走っていた自分。
とても優しげな顔をしながら、はははっと楽しそうに笑いながら俺を追いかけていた父。当然、父も俺が元気だと過信していたから、崖に近づいていた辺りに来ても俺を無理には止めなかったのだと思う。
追いかけてくる父を振り返りながら、俺は前も見ずに走っていた。
『あははっ、あはははっ…!』
『あっ、おい!颯霞!!前を見ろ!今すぐ止まるんだ!!』
焦った顔の父。青ざめた様子で大声でそんなことを言っているのは、俺を捕まえるためにわざとやっていることだと思っていた。
だから俺はそのまま崖から足を滑らせ、世界が一気に反転する様子を見た。
『あ……ッ、』
咄嗟に目の前の空を掴もうと、必死に手を伸ばす。このまま重力に従って落ちていけば、俺はきっと濁流のように濁り、強く流れてゆく激流の川の中に溺れて死ぬ。
ヒュッ…!と心臓の奥から強く息を吸った。それは初めて感じた“死”という言葉への恐怖で、俺は地へと戻ることを諦め、ギュッと瞼を閉じた。
もう助からない、こうなったのは考えが浅はかだった馬鹿で幼い自分自身のせいだ、と俺は死へと向かう中、三歳の脳で漠然とそう思った。