七海さんの言葉に、一切嘘は混じっていない。けれどやっぱり七海さんが纏う雰囲気がどこかおかしいのだ。

 前までは七海さんが俺にくれる言葉を一度も疑ったことがなかったのに、今は七海さんが零す一つ一つの言葉にどこか偽りのようなものを感じてしまう。

 そんな疑心暗鬼に七海さんを見つめてしまう自分が、嫌で嫌で仕方がなかった。


「……颯霞さん?どこか体調が優れないのですか?」


 黙り込んでしまった俺に、七海さんが心配そうな顔をして椅子から立ち上がろうとする。それを止める気力も今の俺にはなくて、七海さんは俺の近くまで近寄ってきてもらうようなことをしてしまった。

 我ながらそんな自分が不甲斐ない。

 恋人の少しの異変ごときでここまで心を病んでいる弱い男だということを、七海さんにだけは絶対に知られたくなかった。


「颯霞さん、顔色が悪いです。少し失礼します」


 七海さんはそう言って俺の方へ手を伸ばし、それをおでこに優しく添えた。ひんやりとした七海さんの冷たい手が、熱を持った顔に涼しくて思わず目を細めた。


「颯霞さん、熱がすごくあります……っ。体調が悪かったのなら無理して私との時間を作らなくても良かったのですよ……っ?」


 七海さんは慌てた様子で俺の方に腕を回して、ゆっくりと立ち上がらせてくれる。七海さんが必死になって俺のことを心配してくれている。

 もうそれだけで、俺の虚しく寂しさを感じていた心は温かな幸福で満たされた。


「七海さん、ご迷惑をお掛けして本当に申し訳ないです……」

「颯霞さんは、私に対して迷惑だなんて思わなくていいのです。私が今貴方にしていることは婚約者として当然の責務ですし、何より私が颯霞さんのためになることを沢山していきたいのです」


 七海さんは真剣に、切実に優しい声音でそう言いながら、自分よりも高い俺の肩に手を添えて、なるべく俺がきつくないようにゆっくりと歩き出す。


「ありがとう、ございます」


 その言葉がじんわりとした熱を持って胸に沁みて、熱のせいなのかそれとも感動したからなのか、視界が涙で滲みそうになる。

 七海さんと目が合うと、ふんわりとした優しい笑みで見つめられた。

 二人で屋敷の中へと戻り、一階の廊下の一番奥にある颯霞の私部屋へと向かう。ここには前も、酒に酔って眠ってしまった七海さんを連れて行き、ベッドに寝かしたことがある部屋だ。

 七海さんはその部屋の扉のドアノブに手をかけて、ガチャリと音を立ててその扉を開いた。

 部屋の真ん中に置かれた大きなベッドまで歩く間も七海さんは優しく気遣うように背中に手を添えてくれていた。

 ベッドに腰を下ろし、靴の紐を解いて脱ぎ、足をベッドの上に置いた。

 そこから七海さんが俺の体に布団を被せてくれて、冷たくなって寒気を覚えていた体が一気に温かくなる。


「こんなことまでしていただいて……、本当にありがとうございます」

「ふふっ、颯霞さん、その言葉を何度言うのですか。先程から私が何かする度にそう言っていますよ」

「あ……はは、日本人、だからですかね」


 颯霞は気恥ずかしくなりながら自分よりも高い位置にある七海の瞳と目を合わせた。だが、その瞬間颯霞は見てしまったのだ。

 と言うより、見えてしまった。“日本人”と呟いた颯霞のことを、絶望したようなそんな見たこともなかった七海の暗い表情の陰りを。

 その暗すぎる表情に一気に違和感を覚えた颯霞は、グッと眉に皺が寄るのを抑えられなかった。

 今、とても訝しげに七海さんを見つめてしまっている自覚がある。そんな嫌な視線を七海さんに向けたくないと心では思っているのに、体が言うことを聞かない。


「なぜ、────…」

「そ、颯霞さん……っ。私、お絞りを持って来ますので……、」


 なぜ、そのような表情をしているのですか───…。

 そう尋ねようとした俺の口は、七海さんに不自然に遮られ、その疑問の続きの言葉を失った。

 まるで俺が尋ねようとしていたことを分かりきっていたかのように、七海さんは俺に背中を向けて足早に隣の部屋へと逃げていくようにして去っていく。