涙に濡れた私の心がそう颯霞さんに訴えたくて仕方がなくなる。だけど、私はその質問を口にはしない。私が颯霞さんの目の前で今まで隠し続けてきた弱音を見せることは、これからもきっとない。

 それは颯霞さんにとっても私にとっても、とても辛いことになるだろうけれど、それでもそうしなくてはいけない。


「……七海さん。今夜はどうか、俺の腕の中で安らかに眠ってください」


 颯霞さんの震えるほどに優しい声音が、私の鼓膜の奥深くに届き、情けないほどに嬉しいと感じてしまう。


「……はい。ありがとう、ございます」


  私は颯霞さんの紺色の着物の袖をギュッと強く掴み、その背中に腕を回した。颯霞さんの力強い胸の鼓動が、肌を通して伝わる。

 そんな私の行動に颯霞さんが嬉しそうに儚げに笑う様子が、直接見なくても瞳の奥に映る。

 静けさだけが残る私の書斎に繋がっている、隣の寝室の大きなベッドの上。私たちはこれでもかというほどに、お互いをきつくきつく、抱き合って眠った。

 同じベッドの上で、世界で一番愛おしい颯霞さんと眠りに落ちることが出来た二度目の夜を、私は絶対に忘れることのないように、心の一番深いところに美しい思い出として強く強く刻み込んだ。


 ◇◇◇


 今もこの瞳を閉じれば必ず思い出す、大切で大好きな人との一瞬だったけれど、どれもとてもキラキラとしていて何よりも鮮やかだった記憶。

 何十年もの年月が経った今でも忘れることの出来なかった初恋を、僕は今日、叶えに行こうと思う。僕の記憶に残るあの幼い頃の君は、今はどんなに美しくて可憐な女性になっているのだろう。

 きっと今もこの僕を待ち焦がれて寂しい思いをしている彼女を、これ以上一人にはさせられない。

 今から、この僕が君を迎えに行くから。

 だからそれまで、どうかお体には気をつけて───…。

 僕が愛するたった一人の、エマ・シャーロット姫。

 ───君をこのヴィラン家に迎え入れる準備が、この数十年をかけてようやく整ったよ。だからもう、安心していいんだ。


 ◇◇◇


 あの日から、七海さんはどこか変わってしまった。

 だけどそれは、俺のことを意識的に避けているだとか、二人の仲がギクシャクしているとか、七海さんの俺への接し方だとか、そういうものが変わったのかと言えば、それは違う。

 いつも精気に溢れて輝かしいほどに光に満ちていた七海さんの“強い女性”というオーラが、最近は鬱々としていて何かに対して憂いているような雰囲気を醸し出している、感じなのだ。

 一時(いちじ)はそのことを七海さん本人に直接聞こうとしたが、そんなことを聞くのは失礼かと思い、俺の心の内だけに留めたのだけれど……。


「颯霞さん、どうかされましたか?」

「え……?あ、いえ、何でもありませんよ」


 俺としたことが、……今だけでも気を引き締めて普段通りを取り繕わなければ。俺は焦りの感情を隠すように、七海さんに咄嗟の笑顔を向けた。

 今日は、久しぶりに二人の予定が同じ時間帯で空いていたから、屋敷の外の庭園の一角で七海さんとアフタヌーンティーを楽しんでいたのだ。

 冬の陽気なお昼過ぎの一息つく一時(ひととき)は、俺にとって至極の時間だった。何せ、俺の目の前には大切で愛おしい大好きな人が、柔らかい笑みを浮かべて優雅に紅茶を啜っているのだから。


「……俺、こうして七海さんと過ごせる時間がとても嬉しくて、愛おしいです」


 俺が七海さんを熱のこもった瞳で見つめながらそう言うと、七海さんは少し驚いたように目を瞠って、紅茶の淹れられたカップをコトン、と紫色の花が描かれたソーサーの上に置いた。

 そして恥ずかしそうに頬を桃色に染めて俺の方を見る七海さんを見ていると、俺の心からは全ての苦悩や業務のことが突風に吹かれるがごとく消え去り、穏やかで幸せな気持ちが俺の体全体を支配する。

 俺にこんな感情を教えてくれたのは、与えてくれたのは、間違いなく七海さんしかいない。


「そう、ですか……。それは良かったです、安心しました」

「……安心、とは?」

「……っあ、えっと……。私と過ごす時間を、颯霞さんが嬉しいと感じてくれていることに対してです」