そう思えていたのは、いつも自分から颯霞さんと距離を置いていたからだ。だけど今回はもう───。
颯霞さんから距離を置こうと、私の心に深く干渉しないようにしようと、そう私を想ってそう言ってくれたのは分かる。
だけどそこで寂しいと感じてしまう私は、なんて自分勝手な人間なのだろう。自分の不甲斐なさに、颯霞さんには気付かれないほどの小さなため息を吐く。
今日の夜だけは何だか、一人でいたくなかった。一人になってしまえば、私はまたどうしようもない不安の渦に突き落とされて、眠れぬ一夜を過ごすことになるだろう。
だから、───。
これが最後の“子規堂七海”としての我儘だから……。
「───颯霞さん、今夜は、私の側にいてくれませんか」
もうこれ以上は、何も望まないから。私は貴方の愛する婚約者として、もう一度だけ貴方の腕の中で安らかに眠りたい。
「………えっ、」
あの日、初めて颯霞さんと体を重ねた日。貴方の温かい腕の中で眠りに就くことがあんなにも心地良かった。
長いこと悪夢に魘されては浅い眠りばかりを繰り返していた、そんな辛い毎夜。それが一気に解消されたように、颯霞さんの腕の中では深い眠りに就くことが出来た。
「……お願いします。今日は何だか、一人では心細いのです」
私の突然の申し出に、颯霞さんはとても驚いたようにして目を瞠っていた。それは当然のことだろう。
何せ私は今まで、こんな願い事を颯霞さんにしたことがないのだから。あまりにも急な、大胆なお願い。
颯霞さんに迷惑がかかるということは分かりきっていた。自分に何も話してはくれない私と一緒に、同じ寝所で寝たくはないだろう。
颯霞さんは暫くの間、悩むように顔を強張らせていたけれど、私への返答が決まったのか曇りない真っ直ぐな瞳で私を見た。
「───分かりました。今夜は俺が、七海さんのお側にいます。……だからどうか、安心してください」
颯霞さんは慈悲深い瞳をして優しく微笑んだ。その陽だまりのような笑顔に、胸がきつく痛み、息の仕方を忘れそうになる。
ギュウギュウと押し寄せる胸の痛みに、一瞬目眩を覚えたけれど、私は何とか意識を取り戻して颯霞さんに気付かれないように笑みを浮かべた。
愛おしい人の笑顔を見るのが、こんなにも嬉しい。だけど私はこのお方のお側で、この命が舞うまで添い遂げることは、きっと出来ない。
───許されない。
「……っ、ありがとうございます」
この世の者は、“ありがとう”に宿る深い意味を知っているのだろうか……。
ありがとうとは、“有る”ことが“難しい”という意で、漢字で書くと“有難う”となるのだ。
何気ない日常で、感謝の意を伝える言葉。安心して穏やかに暮らせる日常が、本当は奇跡のように有り難いものなんだって、人々はもっと知らなくちゃいけない。
残虐非道な戦争に巻き込まれる、罪のない数多もの民。
力もない人々を陥れ、本能のままにその血肉を喰らい、人々をその魅惑で惑わせ、騙しては籠の中の鳥として己の手中に収めようとする意地汚い妖魔鬼怪。
その他にも、異能者が滅殺するべき強大な魔力を宿した“異形”。それなら私がするべきことは、
ノア様方の祖国のために、この命を賭けてでもその御恩に従い、恩返しをすることだ。
辛いけれど、悲しいけれど、今もこんなにも胸が押し潰されそうなほど苦しいけれど、……。
───私は、果たさなくてはいけない。
この世界に証明しなければいけない。
「七海さん、こちらへ」
私がこの世界に存在している、本当の意味を───。
「……っ、はい」
差し出された颯霞さんの右手に、ぐるぐると心の中を巡り続ける色んな感情を抱きながら、私は自分の左手を重ね合わせた。
その温かい温もりに不覚にも涙が溢れ出そうになる。
この人はどこまで、こんな私に優しくしてくれるのだろうかと、どうしてそこまで世界の全てを包み込めるほどの眩くて温かい大空のような心が持てるのかと、……。