颯霞さんの深い青の軍服の袖を握って、上ずる声を何とか抑えようとしながら名前を呼んだ。颯霞さんはきっと私を見て、優しく微笑んでくれる。
そう過信していた。私は、この人を甘く見すぎていたのかも知れない。日本の武力を担うこのお方を、舐めていたのかもしれない。見落として、いたのかもしれない。
「離せ」
このお方は、時に誰よりも冷酷な、毒蛇になりうるということを───。
「…っ───!?」
鼓膜が凍るほどの冷たくて低い声に、従わずにはいられなかった。颯霞さんの服の袖を掴んでいた私の手は、ブルブルと震えたまま宙に浮かび、だらりと力をなくし、体が床にへたり込んだ。
軽蔑するような、卑下するような、そんな冷たくて他人行儀な瞳。そんな視線で見つめられたことなど、颯霞さんと会ったあのお見合いの日でさえも、なかった。
颯霞さんは私を一瞥しただけで目もくれず、その殺気立つ冷酷な瞳を再び怯えている様子の真琴さんに戻した。
本当に、もう……どうしてしまったのかしら。
颯霞さんはいつも穏やかで、温かくて、すごくすごくお優しい方なのに……。
「西条、お前……七海に何をした?」
……───っ。
地をも震わすほどの低くて恐ろしい颯霞さんの声だけが、この書斎中を不気味に震わした。颯霞さんは今、すごく怒っている。
私の名前を呼び捨てで呼ぶ時は、大抵颯霞さんの様子がどこか異常な時だ。狂気じみた尋常ではない様子。
「七海、少しの間だけ────目を伏せておいて」
私は颯霞さんのその言葉にすぐに従い、瞳をきつく閉じた。そんな私に倣い、蹲っていたメイドさんたちも私を守るようにして周囲を囲い、瞳を閉じ、頭を下げた。
これから行われることは、何となく予想がついている。
「俺はあれ程親切に忠告しておいたはずだぞ。……西条」
颯霞さんによる、執事の真琴さんへの制裁だ────。
「…っ、氷織様───!!ま、誠に申し訳ございませんでしたっ!!この己の過ち、命に代えてでも償うことを誓います!!」
ごくり、と喉が上下に動く。きつく閉じた瞳から少しだけ覗いた真琴さんの様子は、心が締まるほどに見難い光景だった。
床に頭を擦り付け、颯霞さんに対する誠心誠意を一生懸命に体現しようとしている。
「西条、お前……、七海に気があるそうではないか」
「……っ、そ、そんなことは滅相もありませんっ!!神に誓って、ありえません!!」
「俺の嫉妬を買った者が今までどんな最期を迎えたか、お前は知っているか?」
颯霞さんの、嫉妬……?
「……っ、!?」
「投獄か、死刑か、生涯孤独か。───この三つだ」
「七海に近付こうとする穢れた男がこの世に五万といると思うと、反吐が出る。俺は常人よりも、ずっと嫉妬深い」
「ぞ、存じております……っ」
「出ていけ。今後七海に近付いたり部屋に一瞬でも入る時があれば、その時は問答無用でこの屋敷から追い出す」
もう言うことはないとでも言うように、颯霞さんはその凍るように冷たい瞳を真琴さんから逸らした。
私は今日、私が知らない颯霞さんの一面を知ってしまったような気がした。そして、それは知らない方が良かったのかもしれない。
颯霞さんも、全てを突き放すような、あんな冷たい瞳をするんだって……。今日のことがなければ、私はずっと知らないままだったのかもしれない。
真琴さんは去り際、しょんぼりとしたような悲しい目をして、もう振り向くことはない颯霞さんを見ていた。
それにまた心が痛み、何もしてやれない自分への、不甲斐なさに、私はまた深く絶望したんだ。
そして、私は力の抜けてしまっま全身に力を入れ、立ち上がろうとした。だけど、颯霞さんが私の目の前まで来て、手を差し出してくれた。
私はその手を迷いながらだけど、強く掴んで立ち上がった。
───颯霞さんはきっと、誰にも離せないような秘密を、抱えている。
今日のように颯霞さんが突然別人のように変貌してしまうのには、何か理由があるはずだ。