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颯霞とのお見合いの日から三日ほどが過ぎたある昼の日のこと。
七海はある任務を遂行するため、森の奥に隠れて存在している、大きな屋敷の前にいた。門兵に用事を伝え、大きな門をくぐり抜ける。
ここへ来るのにはまだ慣れていない。厳格な雰囲気が漂う屋敷全体に気圧されるのはいつものことだ。
西洋の家の作りをしているこの屋敷は、いつもの綺麗さを保ったまま、何百年も存在し続けている。
私が屋敷の立派で豪華なドアを開こうとすると、それは勝手に開かれた。
ああ、長くここに来ていなかったせいで忘れていたけれど、ここには少数だけれども立派な執事が待機しているんだったわ……。
屋敷の中に靴を履いたまま入る。広い玄関の正面には、大広間へと続く長い廊下があった。私はその廊下を通ることなく、螺旋階段を使った。その方があのお二人方のいる書斎に近いからだ。
書斎へと向かい、その扉の前で一つ深呼吸をする。ドアをノックしてから、こう告げた。
「リリー様。ノア様。子規堂七海、只今参りました」
深く、深く頭を下げる。あのお二人方が顔を上げろと言うまで、私は一切動じてはならない。そういう決まりだ。
「七海。待っていましたよ」
「顔を上げなさい」
優しく声をかけてきたのはリリー様。そして、厳格な雰囲気を全身に纏い、顔を上げろと言ってきたのはこの屋敷の主であるノア様だ。
「氷織颯霞との婚約が決まったことを直接伝えに参りました」
「ああ」
ノア様は一瞬にして難しそうな顔になり、眉をひそめる。屋敷の外から聞こえてくる葉の揺れる音が妙に鼓膜に響いた。
「あちらは何も怪しんではいなかったか?」
「はい。その可能性は断じてありません」
「……ああ、それなら良いのだ」
ノア様は瞳を伏せて、机上に広げてある報告書に何やら書き足し始めた。おそらく、本部へと送る密告書だろう。それよりも、と七海は思った。
リリー様とノア様は本当に日本語がお上手だわ……。
思わず感嘆の声を出しそうになったが、それは心の中だけに留めた。二人は、日本人ではない。
それなら、一体何人だというのか。それはまだ言うことなんて、到底出来ない。
「七海」
よく通るノア様の声に私はそちらの方へ体の向きを変える。
「はい」
「お前に、次の任務が届いた。この封筒を確認しなさい」
ノア様が手渡してきた封筒にはとても高価であろう金箔が散りばめられていた。私はそれを慎重に受け取り、中身を取り出した。
任務書が書かれた用紙に一通り目を通し終えて少し、安心した。これならば、まだ私に出来ることだったからだ。
『氷織颯霞との交際期間中に、お前は決して奴に入らぬ情など抱いてはならない。そして、必ず奴がお前に特別な情を抱くように仕向けろ』
少々荒々しい命令口調の任務書。この人は、一体いつになったら私を開放してくれるのだろうか。そこから逃げ出そうとしない私が悪いのかもしれない。
でも、逃げたところで相手は帝なのだ。
私は逃げたところで帝に後を追われ、殺されるだろう。
反逆者として帝の目に止まり、手に入るかもしれなかった自由さえも、失ってしまうかもしれない。
そせん、私はその程度の人間だ。こうやって任務に従っていながらも、その本当の意味は自分にはそれが一番良い道だからだ。
私は今日の用事を終え、屋敷を後にした。少しでも早く、ここから抜け出したかった。森から出たところで、何だか体から鉛のような重い感覚がなくなった。
「一体、何が正しいって言うのよ……っ」
泣きそうになるのを必死にこらえる。頭を抱え、しゃがみこんでしまった。昔から剣技を叩き込まれた私の手は、決して女性の手とは思えないほどに、分厚く丈夫になっていた。
女性のように、華奢な体でもない。長身の体に程よくついた筋肉。今は綺麗な着物を身に纏い、醜い本当の自分を隠しているがそんなことをしても意味がないのだ。