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あの日の夜の出来事から、数日が経った。私はまだ、颯霞さんと顔を合わせられないままでいる。
颯霞さんの方から私の書斎を訪ねてくることもなければ、今まで毎日一緒に食事をしていたのが、料理は全て私の部屋に届けられるようになっていた。それはきっと颯霞さんのせめてもの気遣いだろう。
今の私にはそれが、精神的にも体力的にもとても助かっている。きっと颯霞さんと顔を合わせてしまったら、私はまた息苦しさに苛まれてしまうだろう。
「子規堂様、朝食のお時間でございます。お料理をお持ち致しました」
「あぁ、入ってください」
目を向けていた書類から視線を外し、コンコンと扉を軽く叩く音が聞こえた方を見た。扉が開き、廊下から黒いスーツを纏ったまだ若い二十後半の執事さんが現れる。
今日も今日とて、身なりの良い服装に姿勢正しく佇むその姿を見て、ふっと笑みが浮かぶ。その執事の名前を、西条 真琴と言った。
彼もまた颯霞さんには決して及ばないけれど、女性に好まれる端正で綺麗な顔立ちをしていた。顔のピース一部一部を神様が丁寧に組み合わせたような、そんな誰にでも愛されるような愛くるしい大人っぽい顔だ。
そんな西条さんの後ろから豪華な朝の食事のお皿が乗せられてるワゴンを引いたメイドさんたちも後に続いた。
毎朝、昼、夜、こうしてお料理を部屋に持って来てもらうのは凄く申し訳なくて気が引けるけれど、それも颯霞さんの優しさだと今は素直に受け取ることにしたのだ。
「真琴さん、そして皆様。いつもいつも、本当にありがとうございます」
私はそう言って頭を下げた。するとメイドの人があわあわとするように「な、七海様……っ、お顔を上げてくださいませ」と必死に私を諭した。
「いえ、しっかりとお礼くらい言わせてください。ここに来てから、私は貴方方メイドさんたちや真琴さんに、ずっと親切に大切に扱われて、支えられてきたのですから」
私はそう言ってふわっと柔らかい笑みを浮かべた。こんな花が咲くように明るい表情をしたのはいつぶりだろう。
私のこの笑顔は、思わず浮かべてしまったような、そんな嘘一つない心からの微笑みだった。
そんな私の笑顔を見たメイドさんたち全員がなぜか顔を赤く染め、真琴さんに至っては目を大きく見開いてこちらをガン見している。
「……?真琴さん、どうされたのですか?」
少しだけ歩を進めて、私は未だに固まってしまっている真琴さんに近付いた。真琴さんは私から一刻も目を離すことなく、近くで顔を見てみるとその綺麗な肌が少し赤みを帯びているのが分かった。
「……っ、子規堂、様……。ち、近いですっ」
私が真琴さんの顔を覗き込んだその時、途端にその顔が一気に赤く茹蛸のように染まる。
「真琴さん、……?もしかして熱があるんじゃないですか?」
私はそう思って、真っ赤に染まった真琴さんのおでこに優しく手を添えて体温を確かめようとした。
……けれど、その手は真琴さんに勢い良く掴まれ、阻まれてしまった。真琴さんは下を向いてなぜかプルプルと手を震わしていた。
「子規堂、様は……男性との距離感というものをもう少し学ぶべきです!失礼致しました……っ!」
同じく真っ赤な顔でそう告げて、真琴さんは瞬きをする間に私の書斎を出て行ってしまった。
真琴さんに掴まれていた手は虚しく宙に浮いたまま、私はただしばらくその突然の不可解な出来事にぽかんと口を開けていることしか出来なかった。
「ねぇ、百合さん。真琴さん、本当に熱はないのかしら?心配だわ」
他のメイドさんが皆退出した後、私は一人のメイドに声を掛けた。
「ふふ、熱は恐らくないでしょうね。しかし七海お嬢様の行動で、少し恥ずかしさを感じてしまったのでしょう」
百合という私に仕えている側近のメイドは、とても柔らかな表情でそう告げた。その顔が何だかとても微笑ましげで、私の疑問は募るばかり。
私、真琴さんが恥ずかしがってしまうようなこと、何かしてしまったの……?