後頭部までも預けられる座り心地の良い黒革で出来た大きな椅子から体を起こし、私はすぐ後ろに立ち並ぶ本棚たちを眺めていた。その中に目星の本を見つけ、私は椅子から立ってその本を手に取った。


「思った以上に分厚いわね……」


 グッと眉に皺が寄るのが分かる。元々、長い書物を読むのが苦手な私にとって、この分厚い本を読破することは難しそうだと思い、今まで読むのを躊躇(ためら)っていた。

 ……のだけど。

 もうそろそろ、潮時かもしれない。果たして、この本を読むタイミングに潮時なんて言葉があるとは到底思えないが、これもノア様方の命令だ。

 今はまだ読む時ではないと言われ続けていたこの本を、つい先日「もう読んでも良い時だろう」と言われ、ようやくページを捲ることが出来る。

 本のタイトルは無記載だ。


「一体、どんな内容の本なのかしら……?」


 気になって表紙を捲ろうとした瞬間、私の書斎にある二つの扉のうち一つが、コンコンと鳴った。


「七海さん、今大丈夫ですか?」


 扉の外から、颯霞さんの声が聞こえてきた。その声を聞いた瞬間、どんよりとしていた心の陰りが、一気に晴れ渡っていくような感覚を覚え、私の頬に一気に熱が集まる。


「はい、大丈夫ですよ」


 持っていた本を机の引き出しに入れ、私は颯霞さんが入ってくるはずの扉に近付いた。ガチャリと扉が開く音がして、颯霞さんの綺麗で整った顔が私の書斎を覗いた。

 赤くなった頬を鎮めようとパタパタと掌で仰いでいたところに、こんなにも容姿の良い颯霞さんが現れると、私が必死に行ったことは途端に意味を失くした。

 私が未だに颯霞さんのこの顔に慣れていないのは、きっとこれまで男性と関わったことがあまりなかったせいだろう。


「良かった、丁度七海さんに俺の隊の兵士たちの剣術を見てもらいたいと思っていたところなんです」

「剣術、ですか……」

「……あっ、勿論、無理にとは言いません!だけど、その……七海さんの剣術を見たいと言っていて…、」

「誰が、ですか?」


 心の中で、悪戯心が弾ける。颯霞さんはそんな私の問いかけに何て答えようか必死に考えている様子だ。そう躊躇せずに、何も考えずに言えば良いのに……ふふっ。

 何をそんなに考えることがあるのだろうか。私は快くそれを了承しようと思っているのに。


「え、えと……俺、です」

「ふふっ、やっと言ってくれましたね。分かりました、私の剣術を“颯霞さん”とその兵士たちにお見せしましょう」

「い、今笑いましたね……!?ま、まさか俺をからかっていたんですか、七海さん!」


 私は、颯霞さんのこういうところに惹かれたのかもしれない。一見冷たそうに見える見た目をしているけれど、それはきっと浮世離れした容姿のせいであって、決して颯霞さんの性格はそれとは違う。

 いつも穏やかで、他人を気遣い、真正面からぶつかってきてくれる。私はこれまで、この短期間の内にどれだけ颯霞さんの言葉に救われてきたことだろう。

 颯霞さんの真っ直ぐさに、明るさに、優しさに、こんなにも心が安らぐほどの息をして、私は生きていられる。それだけで、もう十分すぎるほどに幸せなんだ。


「行きましょう、颯霞さん」

「…っはい!」


 嬉しさを隠しきれていない颯霞さんを見ていると、私も自然と笑顔になる。頬が緩み、だらしない口元を隠してはいられない。

 そんな幸せに満ち溢れた顔を颯霞さんに見られたくはなくて、私は足早に前を歩いた。颯霞さんはそんな私の後を慌てて走って追いつき、隣に並んだ。


「実は、俺……ずっと七海さんが刀を振る様子を見てみたいなって、思っていたんです」

「……?」


 穏やかな声をしてそんなことを言う颯霞さんの横顔を私は首を傾げて見つめる。なぜ、私なんかの剣術を見たいと思ったのだろう……?

 特に秀でている訳でも、何かの戦で功績を残したこともない私の剣術を、なぜ颯霞さんが……。