そう言えば俺は、この男のことを『父上』と呼んだことが一度もなかったということを。
如月 砂月───…それがあの男の名前だった。あの男は、月の異能の持ち主だった……。
そして、俺はその日、思い出したんだ。記憶の奥底に大切にしまい込んでいたあの男との思い出が、沸々と海の泡のように幼き俺の心に心地良く染み渡っていったのだ。
俺があの男を悪人として仕立て上げたのは八の頃。まさに今だ。そしてあの男が初めて俺の婚約者を紹介してきたのが七の頃。
そして、あの男が俺を、たった一人の実の一人息子を血を流しながら命懸けで守ったのが、俺がまだ三の頃だった───。
俺は一番忘れてはいけなかった記憶を、忘れてしまっていたんだ……。
◇◇◇
暗い暗い闇の中を、重い重い体で苦しげに彷徨っている感じがずっと続いていた。肺は押し潰されそうなほどに痛くて、足腰はもう限界を迎えているようだ。
私の体に纏わりつく漆黒の闇のようなものがどんどん大きく広がっていき、私の体全部を覆い隠そうとした時……────。
……私の名を呼ぶ、優しさに溢れた声が聴こえてきた。
「……七海さん」
私の名は止まることなくその人の口から発せられ続けていて、私の頭を大きくて温かい手がまるで壊れ物でも扱うような手付きで大切に大切に、撫でてくれていた。
……あぁ、もしかしてこの人は、私が目覚めるまでの三日三晩、ずっと名を呼び続けてくれていたのだろうか。休むこともなく、私の側にいてくれていたのだろうか。
閉じた瞳から、涙が溢れて止まらなくなってしまう。一筋の涙が、私の頬を冷たく、だけど儚いほどに綺麗な波紋を残して流れ落ちた。
「愛しています」
私の手を強く強く懸命に握り締める颯霞さん。その人の綺麗な形をした唇から、本当に真っ直ぐに私を想う気持ちが痛いほどに読み取れた。
「……っ、」
……だめよ、七海。この恋は、この恋だけは、絶対に叶えちゃいけないの───…。颯霞さんの温かさに包まれて、すぐにでも手を伸ばしかけてしまいそうになる。私も太陽の照る颯霞さんのいるそちら側へ行きたいと、思わず願ってしまいそうになる。
颯霞さんの愛に、応えてあげたい───。
本当は、心の中ではそう思っているの。応えてあげたいなんて紛らわしい言葉なんかじゃなく、私はそれに応えたいって、自分の意志を持ってそう思ってしまっている。
「…颯霞、さん……」
今にも死んでしまいそうな、掠れた声だった。力無げにその声は震えていて、体中が重い鉛がのしかかったかのようにぐったりとしており、ベッドから体を起こすことが出来ない。
「──…っ、七海さんっ!?良かった、目を覚ました……っ」
力が入らない手に必死に力を入れ、颯霞さんの手を握り返す。颯霞さんは声にならない声を出して、凄く安心したような、だけどとても疲弊してしまっている表情で私の顔を見つめた。
「颯霞さん、私……」
颯霞さんのことがとても心配になり、私はもう一度重い体を起こそうと試みた。だけど、やっぱり手足の感覚がなく、起き上がることさえ出来ない。
「七海さん、無理をせずに安静に横たわっていてください……っ。ずっと悪夢にうなされていたのですからっ」
あたふたとした様子で必死にそう言う颯霞さん。だけどそんな颯霞さんの方こそ、まるで病人のように衰弱してしまっているではないか。
なぜこの人は、こんな時まで私ばかりなのだろう。
「…っ、颯霞さん、も……大丈夫じゃない、です。病人が病人に看病されても、良くなるものも良くはなりません。……っそれに、私は颯霞さんのお辛そうな顔を見ると、安心して眠ることが出来なくなってしまいます、」
本当に、そうだ。颯霞さんは、きっと自分の限界を知らない。知らな過ぎている。だからこれまでだって沢山無理をしてそれでも立ち上がってきたような、そんな強い人なのだろう。
颯霞さんに私の思いが伝わってくれるようにと、賢明に視線で訴える。人のためにここまで必死になったのは、生まれて初めてだった。