俺は一人そう呟いて、その手をそっと自分の膝の上に置いた。真っ白なタオルを冷たい氷水に浸し、絞ったもので七海さんの顔を優しく拭いていく。

 異能を使って七海さんの悩みを探ろうとしようとするなんて、俺は何て卑怯な男なのだろう。今もなお苦しそうに顔を歪めている七海さんを見ると、心が痛む。

 分厚く綺麗な手。鍛え上げられた綺麗な身体。俺はゆっくりと瞳を閉じた。

 軽々と身をこなし刀を振る様、七海さんの小さな息遣い、耳に心地良く響く、刀が宙を切る音が瞼の奥に映って淡く弾けた。

 自分はいつか、七海さんの剣術を見れる日が来るくらい、七海さんと親しくなれるだろうか。

 額の汗を拭ってあげて、何度も何度も優しく七海さんの柔らかな頬を撫でた。七海さんの強張っていた表情が段々と安らいでいき、それはとても美しい穏やかなものとなっていった。


「七海、さん……」


 俺はどうやったら、貴女に近付くのを許してもらえるのでしょうか……?

 どうやったら、貴女にとってかけがえのない大切な存在になれるのでしょうか……?

 俺はずっと、子供の頃から女性というものの存在自体が嫌で嫌で、嫌悪感しか抱くことが出来なかった。

 それなのに、あのお見合いの日、俺は初めて女性というものに嫌悪感を抱かなかった。

 可憐で純朴な、だけどその瞳の奥には何か暗いものを宿している、そんな女性に俺は一瞬にして目を奪われていた。

 こんなにも綺麗な女性(ひと)に、俺はあの日初めて出会ったんだ───。


 ◇◇◇


 俺は昔から、自分の感情を他人に伝えることが出来なかった。いつも無口で、笑ったことなんて一度もなかった。それも全部、あのろくでもない如月(きさらぎ)家が俺にそうさせていたんだ……。


『颯霞、お前の婚約者が決まったぞ』


 そんな言葉を初めて聞かされたのは、俺がまだ七の時だった。父上とも呼べないその男は、昔から女癖が悪かった。

 母上がいるにも関わらず、毎夜のごとに女を部屋に入れては宴を開いて酔いしれている、そんな大馬鹿者だった。

 母上はそんな男を黙認し、もう全てを諦めていた。毎晩毎晩、俺が眠りにつく頃に母上の啜り泣く声が聞こえてきて、何も出来ない俺はやるせない気持ちになった。

 俺と母上は、あの男の単なる商売道具だった。異能者にとって今や絶滅の危機と思われた氷の異能の持ち主だった母上は、この如月家に嫁いでからも惜しむことなく尽力した。

 それなのに、あの男は、愛の一つも母上に捧げることはなかったのだ───。

 許せなかった。このままでは、母上はもう長くは持たないままに崩れ落ちていってしまう。氷織(ひおり)家に生まれた母上だから、氷の異能の持ち主だから……。

 そんな母上の立派な肩書きに、俺は一体何を望んでいるというのか。母上はとても凄いお方で、素晴らしい人間だ。だけど、そんな素晴らしい人間だからと言って、完璧とは限らない。

 全てに絶望して、死を選んでしまうかもしれない───。

 そう思った幼き頃の俺は、あの最低な男をこの如月家から追い出そうとした。小さい脳ながらも賢明に策を考え、俺はやっと、あの男を悪人として仕立て上げることが出来たのだ……。

 俺は自らの身体を甚振(いたぶ)り、痣だらけにした。皮肉にもあの男の位というものはこの日本国に置いても偉い位置に順ずるものだったのだ。

 俺はそれをいいように使ってやった。昔は、人々の間で行われる噂というものの言伝(ことづて)は早く、次から次へと人々の耳に止まりやがてその情報は俺の住む都市全土へと広がり皇帝にも伝わったのだ。


“現如月家当主は、実の息子に手を出すほどに野蛮で極悪卑劣な奴だ”

“当主としての責任も果たさず、妻である氷織様に全てを任せ自分は夜が明けるまで女たちと酔いしれているろくでもない奴だ”


 噂には尾ひれというものが付き物で、あの男は間もなく如月家から追い出されることになる……。

 あの男遠方へと皇帝の軍に連れて行かれる日。俺は怒鳴り狂う男を前に、何の感情も抱かずにただただ、ある一つのことだけを考えていた。