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 ノア様やリリー様の前以外では良い婚約者を演じなければならない。あの人たちが思う、こうあるべき姿でいなければならない。私はこの国の反逆者であり、裏切り者なのだから───。

 どんなに心の中で悔やもうとも、私が今していることはもう取り返しのつかない重大なことだ。それを知らずに私のことを好きでいてくれる颯霞さんや颯霞さんの御両親には本当に心が痛む。

 けれどいつかは、こうやって人を思う心さえ私は手放さなければならなくなるのだ。そう心に強く刻んで、一度決めたことを曲げない決心を私は今、ここでする。


「二人の婚約式の取り決めをしなければならないね。どうかな、私はもう近々開催したいと思っているのだが」


 国一番の軍隊を率いる隊長と、この国で最も高い位についている名家のお嬢様の婚約。それはこの国にとって、とても喜ばしいことで、とても重大なことでもある。


「俺もその考えに賛成です」


 私の隣で颯霞さんがそう言ったのが聞こえ、私は何とも居た(たま)れない気持ちになった。苦虫を噛み潰したように唇を噛み、三人には気付かれないほどに拳を強く握る。


「縁壱さん、颯霞もそう言っていることだし、もう日程を決めてしまいましょうか」

「そうだね、茉吏。……七海さんはどう思う?」


 穏やかな優しい声でそう尋ねられ、私は一瞬思考が停止した。けれど、すぐに反応して「私もそれで良いと思います」と笑顔で返した。

 そんな取り繕った笑顔の裏で、私は本当にこれでいいのかと、自分自身に問い掛ける。

 もしも選択を誤れば、颯霞さんのことを深く傷つけることになるのだから。


「…ん、七海さん。どうかしましたか?顔色が悪いですが、」

「……っあ、いえ。別に何でもありません」


 颯霞さんは心配そうな声でそう言った。意図せずに俯きがちになっていた顔を勢いよく上げた。

 そこには、心配そうに眉を下げている茉吏様と、少し訝し気にこちらを窺う縁壱様のお顔、そして颯霞さんの私を労わるような憂いな表情があった。


「……っ、」


 その様子を見た途端、私は何も言えなくなった。私はこの人たちに、これからどれだけ酷い行いをしてゆくのだろう。

 それを考えるだけで、虫唾が走るほどに寒気がする。私には、人間としての気持ちがないのか。そう問い詰めてしまいたくなるほど、私は非情だった。


「七海さん、本当に平気なのかい?もし具合が悪いのなら今日はもう休んだ方がいい」


 縁壱様にそう言われ、私は素直に頷いておく。颯霞さんが私の肩を抱いて立ち上がり、縁壱様の書斎を後にした。

 去り際、颯霞さんが御両親に「七海さんは俺が寝室に連れて行くから」とだけ伝えて、大きくて重たい扉を閉めた。


 ◇◇◇


「……あの、颯霞さん。本当にありがとうございます」


 私は多分、颯霞さんが私の異変に気付いてくれなければ今もあの場で死ぬほど心地の悪い思いをしていたのだろう。

 そして、自分のことをこれでもかと言うほどに妬み、蔑み、忌み嫌っていただろう。


「……はい。あの、七海さん」

「……何でしょう」

「俺は、七海さんが何かを抱えて苦しんでいるのならそれを吐き出せてもらえる人になりたいと思っています」

「……」

「勿論、無理に話す必要はありません。……ただ、本当に七海さんのその悩みが、一人では抱えきれなくなるほどに大きなものとなった時に、俺は七海さんの側にちゃんといるということを分かっていてもらいたいんです」


 私の世界は、酷く冷たかった。人の心の温かさを知らなかったから、そんなものに触れたことがなかったから、私はどんな酷い仕打ちにも耐え抜くことが出来ていた。

 ……でも、貴方の優しさを知ってしまったら、その陽だまりのような温かさを知ってしまったら、───。

 私はきっと、………。

 ……きっと、“弱くなってしまう”。人を傷付けることに、悲しみを覚えてしまう。私はやっぱり、あの人たちの忌み子なのだから……。