いつだって寝起きは最悪なものだった。スマホのアラームは五分や二分などの分刻みにセットして、数回聞いてからようやく重たい身体を起き上がらせるのだ。
 けれど、その朝はぱちりと目を覚ました。
 はじめに目に飛び込んできたのは、カーテンの隙間から覗く透明な青空だった。前日と同じように雲一つない天気なのに、急に別世界にやってきた新しい人間になっているような気分がした。
 目覚めは心地よく、起きた後の疲労感が無いように思えた。ふと、昨夜のことが、夢の内容を思い出すように浮かんでくる。まさに、夢のような出来事があった気がするが。
 昨日泣いたはずなのに、目が腫れていない。目元に手を添えても、熱は感じない。
「おはよう」
 部屋の中から朝の挨拶の声がかけられた。ゆっくりとそちらに目を動かせば、昨日出会った星叶がスチームアイロンを手に取って制服のしわを伸ばしていた。やっぱり母親、それか家政婦のようにも思えてきてしまった。
「何? 幽霊でも見たような目で」
 実際そのような存在だと自分で言っていただろう。という言葉は抑え込んだ。
 昨夜出会った彼女は天使見習い……らしいが、未だに現実離れしていて、逆に脳は簡単に受け入れてしまった。にわかには信じられないが、背中から羽が生えたような姿の彼女を思い出せば、信じることしか私にはできなかったわけで。
 それで、昨夜ご飯を食べながら、食べた後も泣き続けた後、彼女が目元を少し冷やしてから柔らかいタオルで温めてくれたのだ。しかも化粧水などでの保湿マッサージ付き。至れり尽くせりだった。そうした道具は彼女の私物らしいので、自分でもできるように彼女にお勧めなど教えてもらおうか。
「着替えてから朝ごはん派? それとも食べた後着替える派?」
「着替えてから朝ごはん」
「オッケー」
 彼女が皺を伸ばしたいつもよりパキッとしたセーラー服を渡されて、着替えようと思えば、熱された服の匂いがかすかにした。それが何だか心地よい香りで、胸のあたりまで温かいもので満たされる気分がした。彼女はローテーブルの上に置き鏡をセットしていた。首を傾げつつ、彼女の動作を見守りながら着替えていく。スカートのプリーツがいつもよりも整って綺麗な形をしていた。
「こっちおいでよ」
 そう言って、彼女は自身の前に当たる位置の床をポンポンと叩いた。どうしたの? と問いかけつつも言うことを聞けば、彼女はヘアブラシなどを手に持って、満面な笑みを浮かべる。さらに疑問だ。座った私の後ろにいる彼女は、丁寧な手つきで私の髪先を手で掬う。
「まとめてあげるよ」
「ええ?」
「本当は前髪もいじりたいんだけどね」
 流石にキャラ変しすぎになるかな? と思って止めたらしい。まあ、その通りだ。
 きっと誰が見ても『重い』と言ってきそうな前髪は、今の私にとっては防壁のようなものだった。その分、暗い人とかのイメージも持たれるのだけれど。
 ていうか、前髪だけでなく後ろ髪をまとめる、というのも少しためらってしまう。だって、ほら、後ろの人、上の方に髪を持ち上げているもの。これは俗にいうポニーテールになりそうだし。普段はまとめるとしたら下できつく一つ結びだから、首筋が空気に触れて少し違和感。
「綺麗な髪してるよね」
「え?」
 ていねいに、ていねいに、櫛で髪を梳かして一つに束ねていきながら彼女は言う。
「烏の濡れ羽色って、こういうのを言うんだなって、見た時に思った」
 ギャルな風姿をしている彼女から、そういった綺麗な言葉が出て来るとは思いもしなかった。偏見と言われてしまえば申し訳ないのだが。
 青や紫、緑などの光沢を帯びた美しい黒色を言うと聞いていたから、褒めてもらっているのはすぐに分かったけど。天使……純白という言葉の通りに白い羽を背中に一瞬でも見せた彼女に言われるのは、何度も不思議な気分だ。
 悶々と考えていると、ヘアアレンジが終わったらしい。ずっと丁寧に扱ってくれて、引っ張られて痛いなどの思いはしなかった。彼女は、こうして髪の毛をいじるのも好きなのかもしれない。満足気な声と表情をこぼし、置いていた鏡を持って、私に見せてくれる。思った通り、真ん中より少し高い位置で一束の綺麗なポニーテールが出来ていた。
「派手じゃない?」
「これで派手なわけ」
 目を真ん丸に開いて、心底驚いたと言わんばかりの表情をする。まあ、貴方からすれば全く派手じゃないだろうけれど。普段は自分ではやらないヘアアレンジというだけで、なんだか心が少しそわつくような、浮つくような、不思議な気持ちになるに決まっている。
 不思議な心持ちでポニーテールの毛先をいじっていると、朝食の時間になったようだ。お母さんに名前が呼ばれる。
「えっと、ありがとう」
 照れながらも礼を述べて、部屋を出る。

 朝のダイニングに向かえば、父がもう椅子に腰かけていて、母がキッチンで全員分のご飯を盛り付けていた。みそ汁の香りが届いたので、どうやら本日は和食のようだ。
 最初に気付いたのは父だったようで、優しい顔で「おはよう」とあいさつをくれた。だからそれにこたえるように口角をゆるりと上げて、柔らかい声を意識して「おはようお父さん」と返した。
 席に着くと同時に父はそのまま私に向けて話を続ける。
「母さんから聞いたぞ。もうA判定なんてすごいじゃないか」
「ありがとう。でも期間はまだあるし、最後まで気は抜かないようにするよ」
「そうか。無理はするなよ」
 優しい心遣いに頷いて、再度礼を述べる。
「あら、今日はかわいい髪型なのね」
「あ、うん。……長くなってきたから、まとめようと思って」
「良いじゃない、似合っているわ」
 朗らかな笑みを浮かべながら朝食を並べる母。私もまたつられるように笑う。
 我が家の食卓は、少しだけ良いものが並ぶ。一流企業の部長という役職についている父。地元で一番大きい病院で働く薬剤師の母。生活水準と呼ばれるものは、我が家は高い方に括られるのだろう。父と母は共に働いていて、それでも私を大切に、大切に育ててくれた。
 そんな両親のもとに居て幸せなはずなのに、なぜかいつも心が苦しくなる。申し訳なくなる。贅沢だと罵られても仕方がない。
 人からすればエリートと呼ばれるかもしれない両親が自慢できるような娘になるために。両親から見限られない様に。良い子で居続けなければ。
 ふ、と顔を上げれば、父の後ろで星叶が父を凝視していた。ぎょっと目を開いた私を見て、父はどうしたのかと問うたが、何でもないと慌てて首を横に振った。
 どうやら、父も彼女が見えていないようだ。
「い、いただきます」
 少しだけ心が騒がしく慌ててしまったが、食膳の挨拶をしてから、ご飯を口に運ぶ。今日も変わらず、お母さんのご飯は美味しかった。

 朝食も終えて身支度と学校の準備も完了。学校に行ってくると家から出たら、隣には星叶がさも当然とばかりに立っていた。
「え? 待って、学校にもついてくるの?」
「まーね。対象の子がどんな感じかきちんと知らないと」
「そ、っか」
 星叶が学校についてくる。
私が一番苦しいと感じている場所。原因のあるところ。私が一番、弱くなってしまうところ。見られてしまう、恐怖が沸き上がる。
 そんな私の一面を見て、彼女に幻滅でもされたらどうしよう。
 暫し悩んだが、首を横に振る。そんなことは無いはずだ。だって、彼女には散々弱いところを見せたのだから、今更心配するようなことは無いはずだ。
 けれど、胸がきゅっと締め付けられたような気分がして、目頭が熱くなったような感覚がする。まるで気持ち悪い泥沼へ沈められたように息苦しい。希望の光など届かないような、そんな暗闇にどんどんと己が沈んでいく。いつだって、通学の時間を迎えるたびに私は溺れて、助かることは無い。
「……学校休む?」
 彼女の言葉を聞いて、ハッと意識を引っ張り上げられた。酸素が深く入り込んできて、体中に心地よい空気が染み渡っていくようだった。泥沼から助けられた。
「大丈夫」
「そっか」
小さく深呼吸をしてから、一歩を踏み出す。

 学校が近づくにつれて、いつだって足が重くなっていく。一歩踏み出すたびに、泥沼に足を踏み込んで、そのまま吸い込まれそうになる感覚。肩にも重いものでも乗せているんじゃないかと思わせるほど、段々と背が丸くなる。
 例え怖いものから逃げようと学校を休んだとしても、休んだ分の授業は変わらずに進んでいく。知らないものが増えるのは恐ろしい。
 だから私は意地でも学校に向かっていた。泥沼に沈んで今にも潰れてしまいそうになりながらも、学校へ向かうのだ。
「背筋伸ばす!」
 バシッと背中をたたかれた。「いてっ」と声をこぼすと、周り居た数名の生徒がこちらを見た。足首をくるくる回して、挫いてしまって思わず声がこぼれてしまったんですよ、とアピールをして、最後に小さく咳をして誤魔化す。
「ビックリした」
「あまりに見ていられなくて」
 誰にも聞こえない程度の小声で言えば、彼女の返答に少しだけ眉間に皺が寄った。どうやら彼女の美意識に反してしまったようだ。彼女にはそういったこだわりとか、身への思いが強いんだなと感心した。
 けれど、彼女のおかげで体の中に再度空気が入ってきた。それがどれだけ助かったかは、ちょっと痛かったので教えないでおく。
 両親のように彼女を可視できる人は居ないようで、私の後ろをふわふわ浮きながらついてくる彼女を見ても誰も驚かないし、目も向けない。
 学校にたどり着いて玄関にある己の下駄箱を開ければ、上履きの上に折りたたまれた紙が置いてあった。小さく息を吐いて開いてみれば、思った通りの内容。私への罵詈雑言ばかりが書かれたこの紙は、最早呪物と言っても過言でもないだろう。再度背が曲がりそうだったけれど、さっき痛みを思い出して慌てて元の姿勢に戻す。
「……その紙貰って良い?」
「え? ヤダ」
「ヤダがヤダ」
 自分への悪評や暴言が書かれている紙を、誰かに見られて、更に貰われるなんて嫌に決まっている。だが、天使である彼女には関係ないらしい。星叶は私の手からその呪物をかっさらった。
「あ、」
「どうせ要らないでしょ。捨てとくよ」
 それだけ言って、彼女は自身のポケットに乱暴に押し込んだ。グシャッと言ったから、随分な扱いを受けたみたいだ。私に見えないようにしてから、教室に行けと指をさして促す。
「でも、靴に直接書いたりはしないんだ」
「……先生の目に入るとマズいでしょ」
「ああ、成程? エリート校は大変そうで」
 少し小馬鹿にした言いようだったな。だけれど、彼女の意見には私も同意してしまう。
 先生の目に入ると何故マズいのか。それは彼女が言った通りに、この学校がエリート校と呼ばれていることに関連してくる。
 私が暴言の書かれた靴を履いていたら先生はどうする? この学校にいじめがあると発覚し、そして犯人探しをするだろう。いじめの隠蔽などをする学校もあるだろうが、我が校は頭の良い生徒が数多く在籍している場所だ。それは親も同じようなもの。汚い靴を履いて学校内を歩けば、それは全校生徒にいじめられていると公表しているもの。その噂はすぐに広まるだろう。それなのに学校が協力をせず、いじめの隠蔽など行ったら、学校の評判はがた落ち。だったら、いじめの主犯を見つけ事件を解決させた方が学校としても楽な道なのだろう。だからなのか、この学校の先生はいつも鋭い目をしている。あくまでも、この学校の場合の話だが。
 もし履かなくてもスリッパを借りたら? そうした場合は、それはそれで「何か理由があるのでは?」と探ってくるだろう。
 そうした先生の動きを、いじめの主犯たちは望まない。だからこそ、こうした手を使ってくるわけだ。
 彼女を連れて教室に向かう。扉越しでも、室内が盛り上がっているのが聞こえた。小さく呼吸をして扉を開ける。すると、賑やかだった教室が一瞬、時が止まったように静かになった。
 教室に足を踏み入れると、少しずつ声が戻ってくる。
「今日も真面目だねー」
 馬鹿にしたような、少しの煽りを込めた声が私に向けられた気がした。自意識過剰ではなく、確実に己に向けられた言葉なのだと分かってしまうのが嫌だ。気のせいだったらよかったのに、と願ったのは最初のころだけ。今ではもう諦めてしまった。
 席に向かう途中で誰かの机にぶつかった。慌てて謝ろうとするが、「うわ、最悪ー!」という声と共に、ぶつかったところを手で拭い、誰かに擦り付けた。「止めろよ~!」なんて言いながら蛍菌を押し付けあっている。
 子供かよ。ていうか、今の子供ですらやっているのかな、これ。
そう思っているのに、そうだと分かっているはずなのに、悔しくて悲しくて虚しくなる。
 自分の席につけば、思わず目を丸くした。
「先生に見つかると大変だったのでは?」
「……まあこういうこともあるんでしょ」
 机には油性ペンを使われたであろう、私への悪口と暴言が書かれていた。私の机が他者より暗い色だから、少し遠くから見れば見えにくくて分かりにくいけれど。
 ぐ、と唇をかみしめる。どこからか、いや、クラス中からクスクスと笑い声が響いてくるようだった。
 本当に、本当に、どうして、なんで私がこんな目に? 私が君たちに何をした? 悪いことでもした? 非道なことでもした?
 鞄からウェットティッシュを取り出して、机上を必死に拭う。
 ここで泣いてみろ。それこそ相手の思うつぼだ。私が泣いて、辛そうな表情を見たがっているのだ。そんなの、絶対に見せたくない。泣いてやるか、弱みを見せてやるものか。
 強く自分に言い聞かせて机を拭っても、私の心を突き刺す言葉は消えにくい。
「……鞄の中、見てみ」
 天使の言葉がスッと頭に入ってきて、彼女の言葉に従うように、しゃがみこんで鞄の中を漁ってみる。すると、見慣れないものが入っている。屈んでその見慣れないものを鞄の中で握って眺めていると、彼女が向き合うように屈んで口元に手を添えてこっそりと口にした。
「クレンジングオイル、まあ化粧落としってこうした油分の汚れに良いのよ」
 誰にも見られていないのだから、星叶はこそこそ話さなくても良いのにな。ていうか、いつの間に鞄の中に仕込んだんだか。
 一緒に入っていたコットンに染み込ませて、机の汚れを擦る。少しずつ暴言が消えていくのは、何だか気分がよかった。
「同じ性質だからね、落ちやすいの。擦りすぎると色落ちするかもだから気を付けて」
「うん」
「不安になってきたら消しゴムでこすってもいいよ。机つるつるだし摩擦熱で消えるかも」
 ごしごしと擦っていく。綺麗になっていく机を見て、思わず笑みがこぼれた。
「おばあちゃんの知恵袋みたい」
「はー? 知識ですー」
「そうだよね、ごめんごめん。……ありがとう」
 一人だったらどうしたら良いか分からず、ただひたすらに雑巾などで拭いて、先生が来るまでに間に合わなくて、必死に一日中必死に隠していたのだろうなと想像できた。だから、「大丈夫だ」と、星叶に言葉では言われていないけれど、そんな思いが伝わってくることが、どれだけ嬉しくて助かったか。
 想像よりも早く暴言は消え去ってくれて、星叶のいる方へ顔を向けて、再度礼を述べながら笑みを浮かべた。