目が覚めると、小屋の隅から青白い日光が、じんわりと部屋を明るくしてくしていた。夢の世界から追い出されたようで、暫しの間ぼうとしていたが、ゆっくりとオレの目は覚める。
 少し重たい瞼を何度かパチパチと瞬きする。体内が渇いているようで、枕元に置いてあったペットボトルの水を飲んで渇きを潤した。
 この時間にふと起きた自分は、天使さんにだって見つかっていないような気がする。
 そういえば、ふざけたあの人はどうしたのだろうか。来るなと自分で言ったのに、どこか姿を探してしまう、未練がましい自分が気持ち悪い。
 ベッドから足を降ろし時間を確かめる。まだ早い時間かと思ったが、季節的の事を考えていなかった。時間は、一般からすれば目が覚めていたかもしれない時間だ。
 それでも、ここ最近の自分の中では上出来。そもそも、今までの自分は滅多に寝ることもできなかった。寝ると、あの時の惨劇が鮮明に思い出されるから。
 なのに、今夜はうなされることも無く、悪夢も夢も何も見ないで十分な睡眠をとることが出来ていた。
 家の中で姉たちが歩く音が聞こえる。灯彩姉さんはこれから俺達の朝食を作ってから、その後は店の支度でもするのだろう。暁音姉さんは朝食を食べて、休日だがどうするのだろう……そうだ、あの人は休日も早起きだったことを思い出した。
 学校も、どれだけ通っていないだろう。あの人が死んでから、学校に嫌悪感を抱え、あの人の同級生達をこっそりと呪い、学校に通うことも無く、ただぼうとして生きている。
 そんな自分が、このままこの世界を生きていても良いのだろうか。生きているだけで何もしないオレは家族に迷惑をかけるし、かといって学校に通って勉学に励んだり、あの人が死んだ原因を無くすこともできないし、働いて金を家に入れるわけでもないし。
 それじゃあ、今の俺はどうして生きているのか。さっさとこの世界から消えてしまった方が良いんじゃないかって。あの人の元に、オレも行った方が楽な気がして。

 ――海に行きたくなってきた

 あの人の最期の言葉が脳裏に過る。

 ――……死ぬ、とか

 そう、彼女は海に行きたがっていた。いつかあの人を含め皆で遊びに行きたかったから、こっそりと買った旅行雑誌。居なくなったから意味はなくなったと思ったが、気がつけば雑誌内に載っている海のページをひたすらに眺めた。
 青く透き通る海の写真を眺めていると、あの人の最期と正反対な色で頭がいっぱいになり、思考をごまかしていた。
 久しぶりにクローゼットを開き、選んだものはこの季節に丁度良いものたち。姉達とあの人が一緒に買い物に行った際に、付き添いに出た時、荷物持ちの礼にと姉が買ってくれたもの。そんなこともあったな、深く思い出すといけないから、慌てて袖に腕を通す。
 久しぶりに自分から部屋を出たこと、服を着替えている事。それらを踏まえて、二人の姉が心底驚いたような表情をする。
「……朝飯、ある?」
 少し居心地が悪くなって問いかければ、灯彩姉さんが相変わらずの笑顔でうなずいて、オレの朝食を準備してくれる。暁音姉さんは驚いているけれど、すぐに朝食の準備途中だったことを思い出している。
「おはよう晶斗」
 暁音姉さんが久しぶりに朝の挨拶をしてくれた。こくり、と頷けば姉は少し乱暴にだけれど頭を撫でてきた。
「どこかに行くの?」
「……そう」
「そっか。あ、もしかして電車とか乗る? 乗れるお小遣いある?」
「あるよ」
 少しだけからかいながら姉は笑う。一番上の灯彩姉さんはもはや親心でオレを見るけれど、暁音姉さんは年が近いからこうしてよくからかってくる。
 そう、そういう人達だったことすら忘れるところだった。
 朝食の準備が終わったらしい。灯彩姉さんに呼ばれて、全員で久しぶりにテーブルを囲って朝ごはんだ。テーブルの上には、フレンチトーストが置いてあった。昨夜から仕込みでもしていたのか、ふわふわのパンに甘みが染み込んでいる。黙々と食べているオレを見て、二人の姉は嬉しそうな笑みを必死に隠そうと、会話をしながら食事をする。そんな二人の姿を見て、久しぶりに心臓が締め付けられるような気分がする。
 食事を終えて片づけている姉の元に皿を持っていけば、姉は礼を述べながら服を着替えた俺に問う。
「どこか行くの?」
「まあ」
「お小遣いあげようか」
「いらない」
 一個上の姉と全く同じことを問われ、思わず眉間に皺を寄せた。
「帰る時とか時間は連絡をしてね、ご飯とか用意しないといけないから」
「……わかった」
 即座に返答しなかった俺に姉は少し首を傾げたが、頭を撫でようとしたが手がびしょびしょで泡まみれだったことに気付いて、肩で俺の腕をつついてくる。
「気を付けてね」
「うん」
 礼を述べてから皿を置いて、洗面所に向かう。姉と並んで歯を磨く。久しぶりの構図な気がした。いつだって朝は洗面所の争奪戦だったのだが、最近は姉が広々と使えていたことだろう。今日は狭くして申し訳ないな。
 姉に先を譲ってもらったので、口をゆすいでから吐き捨て、顔を適当に水で洗う。顔をタオルで拭って顔を上げると、姉がこっちを見ていた。
「洗顔しないの?」
 口に歯磨きを咥えたままだったから、口元を手で覆い、泡でモコモコの口内だったからちゃんとした発音ではなかったが、多分そう問うてきた。
 ああ、そういえば。ちょっと前までは、洗顔もちゃんとしていたような気がする。
「忘れてた」
 俺が素直に答えれば、姉は大して興味なさそうに「ふーん」とだけ返事をした。興味ないのなら聞かないでほしい。
 口元を拭いながら、洗顔の泡を立てながら姉はこちらを見る。
「まあ気を付けてね」
 また同じことを言われた。返す言葉が思い浮かばないので、また首を縦に振るだけで終わらせた。
 そのまま部屋に戻って、小さな鞄の中に物を詰め込んでいく。財布と、スマホだけあれば十分だろう。そういえば、電子マネーをチャージしていただろうか。スマホを確認してみれば、ちゃんと残高は残っている。そりゃあそうか。ずっと電車にも乗っていないし、買い物もしないし、外にもずっと出ていないし。
 身支度も整えて家を出る。家から出るまで、こっそりと姉達に見守られていたのは視線で察した。休日の朝だからか学生の姿は全く見えず、社会人であろう大人数名は少し駆け足気味で道を行く。マウンテンバイクを漕いでいるスーツの男性を、同じようにスーツを纏っている別の男性が恨めし気に見ている。
 秋の朝日を浴びながら、少し冷えた空気を全身に浴びながら、周りの朝時間とは違う時間を生きているような気がした。ゆっくりと一歩ごとに、久しぶりな足の下のアスファルトを踏みしめながら駅に向かって歩を進める。

 この世界から逃げよう。その気持ちだけで、逃げ道に向かい歩みを進めていた。

 あの人が亡くなる寸前に呟いた言葉が脳裏に過る。海に行きたい、という気持ちが分かってしまう。ドラマなどでも最後に海に逃げるシーンがあるが、それを沸々とさせる。人間は元々海の生き物だったと言われているから、故郷に帰りたい、逃げたくなるのかもしれない。
 駅が近くになると人の数も多くなった。電子マネーを使って改札口を通る。そのまま階段を上って、目的の番線に向かって行く。この時間にこの方角を使う人は居ないのか、誰ともすれ違わないし、誰もオレの後ろをついてこなかった。
 ホームに辿り着いて、小さく息を吐く。目的の電車が来るまでは、暫くかかりそうだ。
 朝のぼんやりとした輪郭の景色をぼうと眺め、数少ない人々の動きを遠目に眺めている。
 きっとこの行為には何も意味がない。死んだあの人の願いをオレが叶えようとする、とか。なんて滑稽なんだ。
 いや、あの人の願いを叶える、とか格好つけて言ってみたが、本心は自分勝手だ。逃げ出したい、その一心。あの日の出来事から閉鎖された心と世界は、息苦しく、生き苦しい。だから楽になりたい、それだけ。
 ていうか、わざわざ海にまで行かなくても、いっその事。

「電車だけは止めときな」
 誰かがオレの隣にやってきたのか、横から声がする。この声は知っている、この止められ方も、知っている。
 ゆっくりと首を横に向ければ、金髪のロングヘア―を巻いて、真っ白な制服を身に纏っている彼女が居た。
 また出た、来るなと言ったのに。アンタを見ると、あの日の出来事が鮮明に思い出されて苦しいから。
 無言で睨みつければ、ゆっくりと彼女がこちらに目を向けた。そして、その顔にただ目を開く。夜中にオレの自死を止めようとしていた時の力強い瞳ではなく、死ぬ前と同じような目をしていた。目の輪郭が少しぼんやりとしていて、地球のように生命力のあった瞳は、まるで干からびた星のように命を感じない。いや、彼女は死んでいるのだから、命が無いのは当然なのだけれど。
 でもその瞳を見るだけで、悔しくて、虚しくて、寂しくて、唇を噛みしめて涙をこらえることしか出来ない。
「電車に轢かれた死に様は見れたもんじゃないよ。それに、迷惑料って半端ないし。そのお金って家族が払うんだから。灯彩さん達に迷惑かけるの嫌でしょ」
「え、姉さんの呼び方」
「死にたいなら他のやり方考えな」
 まさかの言葉に目を開いた。電車に飛び込むのは止めたけれど、死ぬこと自体を止めることはしなかった。
「……他のやり方なら、死んでも良いの」
「しょうがないよ。アンタのそれは私のせいなんでしょ」
 目に力は感じないけれど、彼女の沈んだ瞳には引き込まれるような別な力があった。
「死んで楽になりたいくらい苦しいのも分かるよ。私には、アンタを止める資格は無いから」
 ああ、そうだ。気付いていた。皆気付いていたんだ。この人がいつも怪我している理由とか、家に帰りたくない理由とか、ボロボロな鞄の原因とか。大人もオレ達も、皆。でも、この人が助けを求めないから。
 アンタがオレを止める資格が無いというのなら、あの時のオレ達も、止める資格は持っていなかった。
「……海に行こうと、思って」
「そう」
「星叶さんが、行きたいって言っていたから」
「じゃあ、着いていこうかな」
 海に行って死にたいとか言っていたけれど、どうやって死ぬのか分からない。溺死になるのかな。偉人に、恋人と海で心中しようとした人が居たが、失敗したんだっけ。じゃあ難易度は高そうだな。
 電車がやってくるアナウンスが流れる。少しすれば、誰も乗っていない電車がやってきた。一つ前の駅が始発だったはずだけれど、面白いくらいに人が居ない。
 最初にオレが乗り込めば、星叶さんも一般人のように歩いて乗車した。がらがらの電車の、ボックス席に腰かける。隣に星叶さんが座った。足を組んで座っていれば、偶に彼女の素足と触れ合う。だが、こうしたことは日常茶飯事だったから、互いに声を出すことは無かった。
 電車もまた、小さな世界だった。誰もいない車両に人間はオレ一人、それと隣に彼女だけが座っている。何だか寂しくなって思わず視線を下げる。
 そろそろ電車が出発するのだろう。アナウンスとベルが鳴ると同時に、ドタドタと駆け込んでくる大きな足音がした。
 どこか現実離れした空気から、現実に腕を引かれて呼び戻された気分がした。駆け込み注意のアナウンスが響くなか、足音と誰かの息切れが近づいてきた。

「驚かせないでよね」
 落としていた視線を上げる。そこには息切れをして、肩を大きく上下に動かしている女子が、オレ達の方を軽く睨みつけている。
「あんた、は」
 確か暁音姉さんの友人だった気がする。偶に窓の向こうに見えた程度で、ハッキリと顔を見たことは無いけれど、この声は聞き覚えがあった。
 正直に言えば、俺達は初対面のはずだ。何故だろう、という疑問よりも先に、星叶さんが腰を浮かせたが、彼女はそのまま肩を押して無理矢理座らせると、その向かい側に腰を下ろした。
 彼女の姿は見えないはずだし、扉を通り抜けるくらいだから、幽霊みたいに普通の人は触れられないはずだ。なのに、この人は星叶さんに触れていたし、どこか彼女を睨みつけている様にも見える。そして当人は、過去では見たことないくらいに縮こまっていた。
 電車はゆっくりと発車して、ゆらゆらと体も揺れる。
 目の前の女子の隣、俺の前には大人の女性がゆっくりと座り、それとボックス席に入る場所には一人の男性が吊革に手をぶら下げながら立っていた。
「いきなりごめんなさい晶斗くん。私は阿土那沙。暁音ちゃんの臨時の先生をさせてもらっていて、灯彩さんにはお世話になっています」
 にこり、と柔らかい笑みを浮かべる。二人の姉と知り合いだという彼女は、ふと視線を動かし、星叶さんの方へ目を向ける。どうしたのかと問えば、何でもないと笑みを浮かべるが、その笑みが怒っている様で少し怖く思えた。
「俺は木之上昴。君のお姉さんのお店でバイトさせてもらっている」
 よろしくな、と人当たりの良い笑みを向けられる。彼も那沙と名乗った彼女と同じように、星叶さんのいる方へ目を向けた。
「えっと、皆さんは星叶さんが見えるんですか?」
「そうだね」
 そう答えたのは星叶さんの前に座った、姉さんの友人。彼女は目の前の彼女から俺の方へ視線を移して、胸元に手を当てる。
「私は火燈蛍。学校は違うんだけれど、暁音さんの友達。予備校が一緒なんだ」
 彼女曰く、予備校で知り合ってから仲良くなり、それからうちにもよく通うようになったんだそうだ。ここに居る全員が、姉さん達と星叶さんと関わりのある人。
 俺の事も、姉さんから話を聞いたと言われ、名を知られていることなどを理解した。
「えっと、何で全員ここに」
「まあ、晶斗くんにもだけど、星叶に用があって」
 蛍さんの少し鋭い目が星叶さんを刺す。
「上司さん? が来たんだよね。それで駅に行ったって教えてもらった」
 怒られている彼女は、必死に目を逸らして窓の向こうを見ている。このまま逃げようとすればいいのだが、蛍さんに手首を掴まれていて逃げ出せないようだ。
 昴さんはオレ達が逃げ出さないように立っているのかもしれない。けれど、周りにいる彼女達の纏う空気そのものは怖くない。それが少しだけの救いだった。
「晶斗くんも、お姉さん達を困らせちゃだめだよ」
「すみません……」
 那沙さんに促されて、今度はオレが縮こまる時間だ。もしかして、姉さん達は俺との些細な会話で、様子が変だと気付いたのかもしれない。それで、どうしようかと相談した、とか。
 ありえる。今朝の俺を見れば、嫌な考えが過る可能性もある。だって、ずっと部屋に籠っていた弟が急に外へ出た。けれど、表情はまだ浮かない顔をしている。最悪の手段を想像していてもおかしくない。
 逃げようとしたとは口が裂けても言えない。何て言い訳しようと目を泳がせていれば、目の前の彼女の方が困ったように眉をひそめた。彼女に嘘は通用しない。だが嘘をつかねばならぬときもある。それ以上は聞いてくれるなど何重にも予防線を張ればきっと何も言わないだろう。
「えっと、なんで皆さんは星叶さんが見えるんです?」
「君と同じだからさ」
 話題を逸らした俺の問いに、今度は昴さんが答えた、顔を上げて彼の顔を見れば、彼は少しだけ苦笑いを浮かべる。
 オレと同じ? 周りにいる彼女達にも目を配ると、少し寂しそうな笑みを浮かべたり、少し目線を泳がせたりする。
 自分との共通点があまり浮かばない。年齢と性別も見目も違うし、性格も少し違いそうだ。姉との知り合いというのは共通点だけど、それで星叶さんが見えるのはあまり関係ないような気がする。
 彼女は、確か天使見習いとかあまり意味の分からないことを言っていた。それで、オレを助けに来たとか言っていて。
 そこで一つの事を思い出し、顔を彼の方に向ければ、昴さんは口元に人差し指を添えていた。
 ゆっくりと那沙さんを見れば窓の向こうを眺めて、何も言わなかった。蛍さんは変わらずに星叶さんの手を握っていて、ぼうっとどこかを眺めていた。
 そんな彼女たちの事を口にしない昴さんにも、オレに対して根掘り葉掘り聞き出したりしない優しさに、少しだけ申し訳ない気持ちが沸いた。