きっと気の迷いだ。失恋した矢先、心がボロボロになった後、死にたくなるほど精神状態が悪かった時に、優しい笑みを見せられたから、優しい声で話されたから、昔から憧れるような女の子の見目だったから。
 自分にそう思い込ませようと思ったが、ダメだった。
 帰宅した後も、頭の中にずっといるのは、あの店長さん。

 私、あの人に恋してしまった……!?

 頭が混乱して、目もぐるぐると回って、思わず頭を抱えた。抱えている私を見て、星叶ちゃんは呆れたように目を細めて息を吐いたのだけれど。
 恋とは――、と色々な定義がある。正直に言うと、私は今まで誰かにそう言った感情を、深い思いを抱えたことが無かった。向けたことが無かった。元彼とも、会わない時間に相手の事を思い出したり考えたりすることも無かった。
 かわいい、美人な女の子が好きだと自覚していたが、それがまさか恋愛にまで進展するとは思わなかったのだ。実際に、今まで付き合ってきたのは異性ばかり。
 これはきっと一目惚れというものだった。心がいくら、違うんじゃない? 気のせいじゃない? と思い込ませようとしても、完璧な嘘はつけない。そもそも、嘘をつこうとする自分を責めようともしてくる。どうやら、恋するときの心は、今の私の味方にはなってくれないみたいだ。
 だから、自分の持っている経験からではなく知識から、これこそが恋というものなのだと、そう定義することにした。しないと、知らない感情に襲われて怖いからだ。

「恋する乙女だ」
「……やっぱりそう見えるか」
 姿見で服をあてている最中に声をかけられたので、少し苦笑いを浮かべながら、星叶ちゃんのいる方へ体ごと顔を向ける。
 恋はもう散々だと思ったのに、それでも、初めてカフェに訪れてから、ずっとカフェに通うようになってしまった。現に今も、服を必死に選んで、少しでも自分を可愛く見せようとしている。久しぶりに自分でメイク道具を使って、どんな系統を目指そうかと悩んでいる。胸を高鳴らせて、体温が上がっている気がして、相手と話しているときは声色が明るく高くなっていく気がして。
 この経験によって、恋とは、じわじわと染みるようなものもあるのだと、知った。少しずつ染みるように、惹かれているのだと自覚した頃には染まりきっていたのだから。
「それでも、不安で、分からないの」
「え?」
「もしかしたら、この思いは勘違いかもしれないって」
 今までだって、ずっとそうだった。アニメで見るような、可愛らしい女の子はよく恋をしていた。だから、私も、自然とそういった恋をするのだと思っていた。両親も、言い方を少し濁すが恋多き人たちだったから、私も恋をして生きていくんだろうなって。
 だから、はじめて告白された時はとても嬉しかった。私も、あの可愛い女の子たちのようなことが出来るんだって。憧れのキラキラとした恋が出来るのかもしれないって。
 だけど、それが本当の恋じゃないなんて、すぐに気が付いた。別れを切り出すのはいつも相手から。その度に言われるのは「本当に俺の事が好き?」とか「ずっと笑ってるけど、本音で話してくれないの?」だったな。
 彼らの言葉もごもっともだ。私はきっと、恋に恋している、という状況だったのだ。
 だから、今回も、もしかしたらそんな状況なのかもしれない。

 自信がない。正しいものが分からないから。否定ばかりされて生きてきたから。

 私の思いや言葉を聞いて、「はあ?」と星叶ちゃんが呆れた様な、それで少し怒っているような低い声をこぼす。
 肩にそって当てている服を、思わず握りしめる。
 怖い。この思いがもし本物だとしたら、周りや当人に「気持ち悪い」と言われるのではないか。誰かに否定されて、己の存在が認められないんじゃないかと。
「他人の物差しで自分を傷つけるのやめなよ」
 ばしん、と結構な力加減で頭を叩かれた。当然のごとく、痛みを訴える声がこぼれたのだけれど、彼女は気にしない。
「確かにきついよ。世の中からズレていると言われたり、それと自分から向き合うのって」
「……うん」
「きっと考えていくうちに深みハマって、ぐちゃぐちゃになって、あーもうどうでもいっかってなると思う」
 それでも、と言葉を続けて、彼女は私の手を取って、真っ直ぐと瞳を射抜いてくる。
 瞳がびっくりするほど深く澄み渡っている。黒い瞳は透き通っていながら、底が見えないくらい深い泉のようだ。このまま、彼女の中に自分が吸い込まれてしまいそうだった。
「人生なんてお手軽に考えて良いんだよ。ハロワに行った時もどうだったでしょ?」
 彼女の例え話に、先日の事を思い出す。確かにそうだった。深く、深く考えても、世の中案外何とかなった。何とかしてくれる人が存在している。
「楽に息を吸って、死ぬときそんなに悪くなかったって思えれば、それでいい」
 私の手に目を向けて、ぎゅうと握りしめてくる。
 一度死を経験した彼女が言うからこそ、その言葉はとても重みがあった。