「空沢、少し良いか?」
朝一の講義を終え、数歩前を歩いていた同じ生徒である彼に声をかけると、何の躊躇いもなく振り向いた。
「ん? どうした?」
相変わらず人当たりの良い笑みを浮かべている。少し眉を下げながら笑みを返せば、彼は少し疑問気に首を傾げる。俺が足を止めているから、空沢も自然と足が止まる。周りの生徒は、駆け足気味に次の教室に向かう者もいれば、ある人はスマホなどをいじりながら器用に歩いたり、友人と共に楽しそうに話しながら歩いているのもいた。
そんな中で立ち止まって向き合っている俺達は少し浮いていて、周りの目が少しこちらに向けられているのが、いくつかの視線で伝わってくる。目の前の彼も感じているらしい。歩きながらで良いか? と誘われ、こくりと頷いた。
「何か悩み事?」
「悩み……というのが正しいのかは分からないけれど」
「七絃が居ないときに話すということは、七絃に関することかな?」
相変わらず鋭いことで。再度頷けば、彼は少し考えるようにして、顎に指を添える。
「それで? 内容は?」
彼の言葉を聞き、息を吸って、吐いて。緊張によって騒がしくなっている心臓を必死に落ち着ける。決心するように拳を握ってから、目の前の友人の目を真っすぐと見た。
「俺と木下が話している時、空沢は公平でいてほしいんだ」
俺の言葉を聞いて、空沢は少し驚いたように数回瞬きをした。それからすぐに、小さく笑みを浮かべる。
「俺の味方で居てほしいとは言わないんだ」
「……俺が空沢の気持ちを縛る資格は無いからね」
返答を聞いて、彼は再度驚いたようだ。笑みは先程よりも優しいものとなっている。
「俺、昴のそういうところ好きだな」
「はは、ありがとう」
俺も、お前のそうしたところに救われている。そう言葉を続けるのは何だかズルい気がして口を噤んだ。
「それじゃあ迎えに行くか~」
木下は、昼休み後の講義に出る予定だったはずだ。今帰れば、木下がバスに乗って学校に向かう時間と合うだろう。俺達と学校で合流する予定ではあったが、共に講義をサボることになりそうだ。
生まれて初めてのサボリだからか、それともこれから先の事を考えてからか、心臓がえげつないくらいに騒がしかった。
二人でバスに乗ることは珍しい。いつも隣に座っているのは、大抵木下だから。空沢は木下と違って、あまり口を開かなかった。むしろ、互いに無言の時間が過ぎていた。けれど、これからの己が乗り越えるべきものと対峙する前では、この空間は居心地がよかった。もしかしたら、彼もそれを察していたのかもしれないが。
暫くバスに揺られて、いつも木下と俺が一緒にバスを待っているバス停に着いた。
「来るまで座ってるか」
「そうだな」
バス停に用意されているベンチに、またも二人で並んで腰かける。目の前に見える景色は、広い敷地のある公園だ。遊具はいくつか使用禁止になっていたと思うけれど、子供が走り回るには十分だったはずだし、ベンチも多く置いてあったはずだ。
そういえば、この公園で、小さい頃は遊んでいたんだっけ。
どれくらい待ったのか。正確な時間は、分かりきっていたはずなのに、心ここにあらずって感じだったし、自分の時間感覚が分からなくなっていたのかもしれない。
誰かがこちらに向かって歩いてくる、靴と地面がこすれる音がした。お昼の時間に、バスに乗る人は限られている。彼はいつも、この時間は人が誰も乗らないから楽だと言っていた。
ゆっくりと音のした方へ顔を向ければ、想像通りの人物が少し驚いたように目を開いてこちらに向かって歩いてきていた。
「昴と紫希? なんでここに?」
「よ、七絃」
いつも通りだったら俺達は学校で昼食を済ませて彼を待っていたから、この時間にバス停に居るのが不思議だったのだろう。彼は驚きながらもこちらに、少し駆け足気味でやってくる。
「え? もしかして休講になったとか?」
「いやサボリ」
「なんだよ! もしかして、俺もサボリに誘われてる?」
「そうだよ。な? 昴」
空沢が俺の肩を組みながら言ってくる。つられて笑みを浮かべようとしたが、少しだけ引きつってしまう。そんな俺達の温度差に違和感を覚えたらしい、木下が首を傾げる。
「もしかして昴は乗り気じゃないとか? 紫希、無理させんなよ」
「いやいや、言い出しっぺは昴だもん」
「そうなの?」
木下の驚いたような表情と声色が向けられて、俺はゆっくりと首を縦に振った。
二人に気付かれない程度に、小さく深呼吸をしてから、木下を真っ直ぐと見つめて口を開く。
「木下と、少し話がしたかったんだ」
彼はさらに疑問気な表情をする。それでも、俺の真っすぐな目を見て、いつもの俺とは違うと雰囲気で察したのかもしれない。いいよ、と彼は頷く。その際に安堵の息がこぼれたが、これは多分二人には聞こえていただろう。
公園で話しても良いか、と道路の向かい側にある場所を指させば二人は頷いた。
「もしかして殴られるとかある?」
「流石にないよ」
木下が笑いながら言うけれど、もしかしたら、俺はそれ以上にひどいことをするかもしれない。殴るより、傷つけるようなことをするかもしれない。
今なら、まだ引き返せる。バスだって、まだ来ていない。やっぱり何でもないと言って、三人でバスに乗って、講義を受けて、今まで通りにやることだって可能だ。
「それで本当に良いの?」
肩に手が置かれたかと思うと、耳元でささやかれた。思わず足が止まる。
肩に伝わる冷たさ。この三人の中では誰も持っていない高い声。金咲さん以外ありえない。そもそも、心を読まれた時点で彼女以外の選択肢はない。
「そう、だよな」
彼女の顔を見ることは出来なくて、目の前に立って俺を待っている彼等を見つめながら、小さく返答をする。
俺は、今までの俺とは違うのだ。そう信じてあげたい。
名前を呼ばれて、止まっていた足を踏み出した。
「どうかした?」
「いや、休むって誰にも言わなかったなって」
「あ、そうじゃん。誰かに頼んどかねえと」
いつも通りの会話。もしかしたら、これで終わってしまう、そんな可能性だってある。それでも、俺はもう、間違った方法で自分を助けたくない。ちゃんと、自分の為に、自分を大切に助けてやりたいから。
後ろで、バス停にバスが止まったのが分かる。だが、待っている人が居なかった為に、バスは即座に出発した。
もう、後には引けない。
公園には人は居なくて、話し合いをするには絶好のチャンスだろう。ベンチに座ろうと二人を誘う。俺が最初に座れば、隣に木下が。空沢は俺の頼みごとを忠実に守ろうとしてくれているのだろう。俺達の間になる位置で、ベンチの後ろで背を向けて、ベンチの背に体を預けながら立っていた。
「いやあ、この公園に来たの久しぶりなんだけど」
「確かに。小さい頃はここで一緒に遊んだもんな」
木下の言葉に俺が言葉を返せば、彼は驚いたようにこちらに顔を向ける。目を真ん丸と開いて、口も開けて。言葉で表現するとしたら、なんだろう。「信じられない」だろうか、いや少し違うかな。「一緒にって間違いじゃ?」かな、いやこれも違う。「どうしてそれを」だろうか、ああ、そうだ。これだ。
彼の表情に、くすりと笑い声をこぼしてから、笑みを浮かべながら隣に居る彼の顔を見る。
「俺さ、覚えているよ」
「……え?」
「小学生の時、木下と一緒に過ごしたことを」
ヒュッと木下が息を飲んだのが伝わる。それほど、彼が俺に隠したかった真実なのだろうと、ハッキリと伝わってきた。少しだけ眉を下げて、笑みを薄く浮かべてから言葉を続ける。
「今日はそのことを、ちゃんと話したかったんだ」
「……ごめん」
彼の一言はとても重いものだった。心のどこかで、もう一人の自分が、やっぱり言わなければよかったという。それとは別の自分が、だから早く縁を切れと言ったのにと冷めた目で見ている。一人で居続ければ、こんな思いを抱えずに済んだだろうにと、呆れている自分も居る。
「こっちこそごめん。こうして謝られたのに、俺は素直に許せなくて、胸がまだ苦しいんだ」
胸元に手を添えて、苦笑いを浮かべると、相手の目は少し潤んでいた。
正直言うと、人付き合いは得意じゃない。許せないことばかりだ。相手を想えば想うほど、掛ける言葉は限られていく。思ったままの自分の言葉は、何度も飲みこんできた。
でも、それを止めることは出来なかったんだ。
「許すことって、難しいことなんだなあ」
「当り前だよ。俺は昴を裏切って、そしてお前を助けることは出来なかった」
「そう、だな。結局、俺達に出来たことって、見えなくすることだけだったんだなって」
少女の顔が脳裏に過る。真っすぐな瞳でこちらを見て、言葉の一つ一つに重みを感じる、あの子。今も、姿は見えないけれど、どこかで俺達を見守ってくれているのかもしれない。
「見えなくする?」
「そう。嫌だったあの時のことも、罪悪感で苦しい時も。楽しいとか嬉しいとか、そうしたプラスの物で隠すというか、塗りつぶすことでしか救われない」
隣の彼を見ればわかる。昔は少し暗かった性格が、こうして明るく真っすぐな性格になっていて、彼は彼で、努力をしてここまで生きてきたのだ。
俺が転校したとき、彼はどう思ったんだろう。優しい彼の事だから、自分のせいでと悔やんだのだろうか。その後はどうやって、乗り越えてきたのだろう。
「だから、一からやり直そうと、入学式の時に話しかけてくれたんだよな」
「……そう、だね。すぐに気が付いたよ。忘れられるわけない名前だったから。それに、昔から変わらない雰囲気だったから」
「そっか。木下は優しいからなあ」
「はは、昴には負けるよ」
思わず泣き出しそうな笑みがこぼれる。俺より先に気が付いて、決して過去の事には触れずに、大学で初めて出会った友人として接してくれたことが、当時の俺からすればどれだけ救いだったか。
常に他人と関わるときに怖がって、それが嫌だって言っているくせに、結局こうして人とつながっている。転校した後も、人と離れようと本気で考えたこともあったけど、やっぱり駄目だった。どうしてもこれだけは捨てられない。
常に良い人ぶるのがつかれるから、誰も彼もから遠く離れてしまえば楽だと思っていたのに、俺はこんなにも、誰かと共に居る時間を愛している。
「だからさ、こんな俺でよかったら、改めて友達になってくれよ」
「……良いのか? それは、本当の気持ちなのか?」
「本気だよ。大学でお前たちと出会って楽しかったのは事実だもの。七絃は、やっぱり嫌か?」
俺の問いかけに、彼はついに大粒の涙をボロボロとこぼした。必死に手の腹や手の甲で拭って、しゃくりあげながら泣いている。
「嫌だったら、声なんてかけてねえよ」
彼の了承ともいえる返事に、仄かに笑みがこぼれた。まったく、人間とは単純でいけない。
たった一度の出来事で距離が出来ても、再会して嬉しいことがあれば、ただそれだけで暗闇で星が輝くように、眩しさに見惚れて心は大きく変えられる。
泣いている彼にティッシュを差し出せば、彼は礼を述べて受け取った。それと同時に、俺と七絃を挟み込んで抱くように空沢が肩を組んできた。
「よっし! これからどこか遊びに行こうぜ」
「空沢、びっくりするだろう」
「なんだ、七絃は名前で呼んだのに俺は呼んでくれないのか?」
「……紫希、どこに行くの」
名前で問いかければ、彼はにんまりと笑みを浮かべた。彼のこんな笑みは初めて見た。驚いていたのは俺だけではなく、七絃もらしい。
どうやら、俺達はまだまだ、お互いの事を理解する時間が必要なようだ。
紫希が腕を離したと同時に、俺達も立ち上がり、それじゃあまずは公園から出るかと、三人で同時に足を踏み出す。
「……悪い、ベンチにスマホ落としてきた」
「大丈夫? 一緒に探す?」
「ありがとう。でも大丈夫、先にどこに行くか決めといて」
暫し歩いてからポケットに手を当ててから言えば、二人が振り返って紫希が問うてきたが、大丈夫だと手のひらを見せれば、二人は了承して先に公園から出ようと背を見せて歩き出す。
それを一瞬だけ見守ってから、先程まで座っていたベンチに向かえば、思った通りに彼女が立っていた。
「許すことにしたんだね」
「ああ。俺は、この手段を取った」
「後悔はしない?」
「……さあ、どうだろう。未来の事なんて誰も分からないから」
これからもずっと彼らと仲良くできるのか、知らないままで居たあの時の様な雰囲気に戻れるのか、やっぱり言わなければよかった、縁を切ればよかったと後悔するのか、どうなるかなんてわからない。
でも、きっと大丈夫。寧ろもっと絆が深まるはずだ。それはあくまで理想や願望でしかないが。
願ってみても叶わなかったり、貫き通せないことがあることも知っている。それでも、今の俺は彼らと自分を信じて、彼らも自分を大切にして生きていく。きっと大丈夫だと信じて。
俺の言葉を聞き、目の前の彼女は少し呆れた様な、それでもどこか安心したような表情で笑みをこぼす。
「良い顔するようになったね」
「そうか?」
「出会った時の、死にそうだった顔とは大違い」
はは、と小さく苦笑い。あの時は死が隣にあるような状況だったから。それでも、短時間でこんなに変われるものなんだなと、自分でも驚いている。
「……実はさ、言ってなかったけど夢があったんだ」
「へえ、言ってみなよ」
「俺、下の名前で呼び合う友達が欲しかったんだよな」
俺の言葉を聞いて、彼女は意表を突かれたように、ぱちぱちと数回瞬きした。かと思うと、すぐに手を叩きながら大爆笑をしてきた。
「良いじゃん、夢が叶ってさ」
「ああ。これも全部、君のおかげだよ」
「良いの、これが仕事だし。それに、頑張ったのはアンタ自身なんだから」
少し片口角を上げて、ニヤリとしながら彼女は笑い、俺の胸元に拳をあてる。
「もう大丈夫そ?」
「ああ、本当にありがとう」
彼女の手に自身の手を添えれば、変わらずに冷たさが俺の手のひらに伝わってくる。これから先に、こうした冷たさに触れる機会がないことを願いたい限りだ。
「君も、大丈夫そう?」
「はは、やっぱりアンタは優しいね。私にも心配してくれるんだ」
「当然だろ。君は俺より年下で、まだ学生、子供なんだろうから」
今では十八歳で成人扱いだけれど、目の前の彼女がもう十八歳かは分からないし。もし未成年だったら、まだまだ守られるべき立場だ。それはきっと、人間だろうと天使だろうと変わらないと思う。
俺の言葉を聞いて、彼女はまた数回瞬きをして、仄かに笑みを浮かべた。
「本当、バカみたいにお人よし」
馬鹿にされているわけではないのは察することが出来たので、彼女の表情を見てつられて薄く笑みがこぼれた。
「昴~! スマホあった?」
少し遠くから大きな声で呼びかけられた。ハッと意識を戻して、慌てて振り向く。
スマホを手に取って、その手を大きく振って、無事にあったことを示す。
「あった! ついでに電話してた!」
久しぶりに大きな声で友人と対話した気がする。相手はすぐに頷いて、早く来いと手招きしている。どうやら行く場所は決まったらしい。
再度後ろに目を向けて笑みをこぼす。
「君も、これから幸せになれますように」
「そのまま返すよ。……何事も程々にね」
その言葉だけを言って、一陣の風が吹く。風によって髪の毛が少し暴れて、髪の毛やごみが目に入らない様にと目をつぶり、風が止んだと同時に瞼を開ける。そこには、金髪の髪を揺らす天使の姿はもうなかった。
朝一の講義を終え、数歩前を歩いていた同じ生徒である彼に声をかけると、何の躊躇いもなく振り向いた。
「ん? どうした?」
相変わらず人当たりの良い笑みを浮かべている。少し眉を下げながら笑みを返せば、彼は少し疑問気に首を傾げる。俺が足を止めているから、空沢も自然と足が止まる。周りの生徒は、駆け足気味に次の教室に向かう者もいれば、ある人はスマホなどをいじりながら器用に歩いたり、友人と共に楽しそうに話しながら歩いているのもいた。
そんな中で立ち止まって向き合っている俺達は少し浮いていて、周りの目が少しこちらに向けられているのが、いくつかの視線で伝わってくる。目の前の彼も感じているらしい。歩きながらで良いか? と誘われ、こくりと頷いた。
「何か悩み事?」
「悩み……というのが正しいのかは分からないけれど」
「七絃が居ないときに話すということは、七絃に関することかな?」
相変わらず鋭いことで。再度頷けば、彼は少し考えるようにして、顎に指を添える。
「それで? 内容は?」
彼の言葉を聞き、息を吸って、吐いて。緊張によって騒がしくなっている心臓を必死に落ち着ける。決心するように拳を握ってから、目の前の友人の目を真っすぐと見た。
「俺と木下が話している時、空沢は公平でいてほしいんだ」
俺の言葉を聞いて、空沢は少し驚いたように数回瞬きをした。それからすぐに、小さく笑みを浮かべる。
「俺の味方で居てほしいとは言わないんだ」
「……俺が空沢の気持ちを縛る資格は無いからね」
返答を聞いて、彼は再度驚いたようだ。笑みは先程よりも優しいものとなっている。
「俺、昴のそういうところ好きだな」
「はは、ありがとう」
俺も、お前のそうしたところに救われている。そう言葉を続けるのは何だかズルい気がして口を噤んだ。
「それじゃあ迎えに行くか~」
木下は、昼休み後の講義に出る予定だったはずだ。今帰れば、木下がバスに乗って学校に向かう時間と合うだろう。俺達と学校で合流する予定ではあったが、共に講義をサボることになりそうだ。
生まれて初めてのサボリだからか、それともこれから先の事を考えてからか、心臓がえげつないくらいに騒がしかった。
二人でバスに乗ることは珍しい。いつも隣に座っているのは、大抵木下だから。空沢は木下と違って、あまり口を開かなかった。むしろ、互いに無言の時間が過ぎていた。けれど、これからの己が乗り越えるべきものと対峙する前では、この空間は居心地がよかった。もしかしたら、彼もそれを察していたのかもしれないが。
暫くバスに揺られて、いつも木下と俺が一緒にバスを待っているバス停に着いた。
「来るまで座ってるか」
「そうだな」
バス停に用意されているベンチに、またも二人で並んで腰かける。目の前に見える景色は、広い敷地のある公園だ。遊具はいくつか使用禁止になっていたと思うけれど、子供が走り回るには十分だったはずだし、ベンチも多く置いてあったはずだ。
そういえば、この公園で、小さい頃は遊んでいたんだっけ。
どれくらい待ったのか。正確な時間は、分かりきっていたはずなのに、心ここにあらずって感じだったし、自分の時間感覚が分からなくなっていたのかもしれない。
誰かがこちらに向かって歩いてくる、靴と地面がこすれる音がした。お昼の時間に、バスに乗る人は限られている。彼はいつも、この時間は人が誰も乗らないから楽だと言っていた。
ゆっくりと音のした方へ顔を向ければ、想像通りの人物が少し驚いたように目を開いてこちらに向かって歩いてきていた。
「昴と紫希? なんでここに?」
「よ、七絃」
いつも通りだったら俺達は学校で昼食を済ませて彼を待っていたから、この時間にバス停に居るのが不思議だったのだろう。彼は驚きながらもこちらに、少し駆け足気味でやってくる。
「え? もしかして休講になったとか?」
「いやサボリ」
「なんだよ! もしかして、俺もサボリに誘われてる?」
「そうだよ。な? 昴」
空沢が俺の肩を組みながら言ってくる。つられて笑みを浮かべようとしたが、少しだけ引きつってしまう。そんな俺達の温度差に違和感を覚えたらしい、木下が首を傾げる。
「もしかして昴は乗り気じゃないとか? 紫希、無理させんなよ」
「いやいや、言い出しっぺは昴だもん」
「そうなの?」
木下の驚いたような表情と声色が向けられて、俺はゆっくりと首を縦に振った。
二人に気付かれない程度に、小さく深呼吸をしてから、木下を真っ直ぐと見つめて口を開く。
「木下と、少し話がしたかったんだ」
彼はさらに疑問気な表情をする。それでも、俺の真っすぐな目を見て、いつもの俺とは違うと雰囲気で察したのかもしれない。いいよ、と彼は頷く。その際に安堵の息がこぼれたが、これは多分二人には聞こえていただろう。
公園で話しても良いか、と道路の向かい側にある場所を指させば二人は頷いた。
「もしかして殴られるとかある?」
「流石にないよ」
木下が笑いながら言うけれど、もしかしたら、俺はそれ以上にひどいことをするかもしれない。殴るより、傷つけるようなことをするかもしれない。
今なら、まだ引き返せる。バスだって、まだ来ていない。やっぱり何でもないと言って、三人でバスに乗って、講義を受けて、今まで通りにやることだって可能だ。
「それで本当に良いの?」
肩に手が置かれたかと思うと、耳元でささやかれた。思わず足が止まる。
肩に伝わる冷たさ。この三人の中では誰も持っていない高い声。金咲さん以外ありえない。そもそも、心を読まれた時点で彼女以外の選択肢はない。
「そう、だよな」
彼女の顔を見ることは出来なくて、目の前に立って俺を待っている彼等を見つめながら、小さく返答をする。
俺は、今までの俺とは違うのだ。そう信じてあげたい。
名前を呼ばれて、止まっていた足を踏み出した。
「どうかした?」
「いや、休むって誰にも言わなかったなって」
「あ、そうじゃん。誰かに頼んどかねえと」
いつも通りの会話。もしかしたら、これで終わってしまう、そんな可能性だってある。それでも、俺はもう、間違った方法で自分を助けたくない。ちゃんと、自分の為に、自分を大切に助けてやりたいから。
後ろで、バス停にバスが止まったのが分かる。だが、待っている人が居なかった為に、バスは即座に出発した。
もう、後には引けない。
公園には人は居なくて、話し合いをするには絶好のチャンスだろう。ベンチに座ろうと二人を誘う。俺が最初に座れば、隣に木下が。空沢は俺の頼みごとを忠実に守ろうとしてくれているのだろう。俺達の間になる位置で、ベンチの後ろで背を向けて、ベンチの背に体を預けながら立っていた。
「いやあ、この公園に来たの久しぶりなんだけど」
「確かに。小さい頃はここで一緒に遊んだもんな」
木下の言葉に俺が言葉を返せば、彼は驚いたようにこちらに顔を向ける。目を真ん丸と開いて、口も開けて。言葉で表現するとしたら、なんだろう。「信じられない」だろうか、いや少し違うかな。「一緒にって間違いじゃ?」かな、いやこれも違う。「どうしてそれを」だろうか、ああ、そうだ。これだ。
彼の表情に、くすりと笑い声をこぼしてから、笑みを浮かべながら隣に居る彼の顔を見る。
「俺さ、覚えているよ」
「……え?」
「小学生の時、木下と一緒に過ごしたことを」
ヒュッと木下が息を飲んだのが伝わる。それほど、彼が俺に隠したかった真実なのだろうと、ハッキリと伝わってきた。少しだけ眉を下げて、笑みを薄く浮かべてから言葉を続ける。
「今日はそのことを、ちゃんと話したかったんだ」
「……ごめん」
彼の一言はとても重いものだった。心のどこかで、もう一人の自分が、やっぱり言わなければよかったという。それとは別の自分が、だから早く縁を切れと言ったのにと冷めた目で見ている。一人で居続ければ、こんな思いを抱えずに済んだだろうにと、呆れている自分も居る。
「こっちこそごめん。こうして謝られたのに、俺は素直に許せなくて、胸がまだ苦しいんだ」
胸元に手を添えて、苦笑いを浮かべると、相手の目は少し潤んでいた。
正直言うと、人付き合いは得意じゃない。許せないことばかりだ。相手を想えば想うほど、掛ける言葉は限られていく。思ったままの自分の言葉は、何度も飲みこんできた。
でも、それを止めることは出来なかったんだ。
「許すことって、難しいことなんだなあ」
「当り前だよ。俺は昴を裏切って、そしてお前を助けることは出来なかった」
「そう、だな。結局、俺達に出来たことって、見えなくすることだけだったんだなって」
少女の顔が脳裏に過る。真っすぐな瞳でこちらを見て、言葉の一つ一つに重みを感じる、あの子。今も、姿は見えないけれど、どこかで俺達を見守ってくれているのかもしれない。
「見えなくする?」
「そう。嫌だったあの時のことも、罪悪感で苦しい時も。楽しいとか嬉しいとか、そうしたプラスの物で隠すというか、塗りつぶすことでしか救われない」
隣の彼を見ればわかる。昔は少し暗かった性格が、こうして明るく真っすぐな性格になっていて、彼は彼で、努力をしてここまで生きてきたのだ。
俺が転校したとき、彼はどう思ったんだろう。優しい彼の事だから、自分のせいでと悔やんだのだろうか。その後はどうやって、乗り越えてきたのだろう。
「だから、一からやり直そうと、入学式の時に話しかけてくれたんだよな」
「……そう、だね。すぐに気が付いたよ。忘れられるわけない名前だったから。それに、昔から変わらない雰囲気だったから」
「そっか。木下は優しいからなあ」
「はは、昴には負けるよ」
思わず泣き出しそうな笑みがこぼれる。俺より先に気が付いて、決して過去の事には触れずに、大学で初めて出会った友人として接してくれたことが、当時の俺からすればどれだけ救いだったか。
常に他人と関わるときに怖がって、それが嫌だって言っているくせに、結局こうして人とつながっている。転校した後も、人と離れようと本気で考えたこともあったけど、やっぱり駄目だった。どうしてもこれだけは捨てられない。
常に良い人ぶるのがつかれるから、誰も彼もから遠く離れてしまえば楽だと思っていたのに、俺はこんなにも、誰かと共に居る時間を愛している。
「だからさ、こんな俺でよかったら、改めて友達になってくれよ」
「……良いのか? それは、本当の気持ちなのか?」
「本気だよ。大学でお前たちと出会って楽しかったのは事実だもの。七絃は、やっぱり嫌か?」
俺の問いかけに、彼はついに大粒の涙をボロボロとこぼした。必死に手の腹や手の甲で拭って、しゃくりあげながら泣いている。
「嫌だったら、声なんてかけてねえよ」
彼の了承ともいえる返事に、仄かに笑みがこぼれた。まったく、人間とは単純でいけない。
たった一度の出来事で距離が出来ても、再会して嬉しいことがあれば、ただそれだけで暗闇で星が輝くように、眩しさに見惚れて心は大きく変えられる。
泣いている彼にティッシュを差し出せば、彼は礼を述べて受け取った。それと同時に、俺と七絃を挟み込んで抱くように空沢が肩を組んできた。
「よっし! これからどこか遊びに行こうぜ」
「空沢、びっくりするだろう」
「なんだ、七絃は名前で呼んだのに俺は呼んでくれないのか?」
「……紫希、どこに行くの」
名前で問いかければ、彼はにんまりと笑みを浮かべた。彼のこんな笑みは初めて見た。驚いていたのは俺だけではなく、七絃もらしい。
どうやら、俺達はまだまだ、お互いの事を理解する時間が必要なようだ。
紫希が腕を離したと同時に、俺達も立ち上がり、それじゃあまずは公園から出るかと、三人で同時に足を踏み出す。
「……悪い、ベンチにスマホ落としてきた」
「大丈夫? 一緒に探す?」
「ありがとう。でも大丈夫、先にどこに行くか決めといて」
暫し歩いてからポケットに手を当ててから言えば、二人が振り返って紫希が問うてきたが、大丈夫だと手のひらを見せれば、二人は了承して先に公園から出ようと背を見せて歩き出す。
それを一瞬だけ見守ってから、先程まで座っていたベンチに向かえば、思った通りに彼女が立っていた。
「許すことにしたんだね」
「ああ。俺は、この手段を取った」
「後悔はしない?」
「……さあ、どうだろう。未来の事なんて誰も分からないから」
これからもずっと彼らと仲良くできるのか、知らないままで居たあの時の様な雰囲気に戻れるのか、やっぱり言わなければよかった、縁を切ればよかったと後悔するのか、どうなるかなんてわからない。
でも、きっと大丈夫。寧ろもっと絆が深まるはずだ。それはあくまで理想や願望でしかないが。
願ってみても叶わなかったり、貫き通せないことがあることも知っている。それでも、今の俺は彼らと自分を信じて、彼らも自分を大切にして生きていく。きっと大丈夫だと信じて。
俺の言葉を聞き、目の前の彼女は少し呆れた様な、それでもどこか安心したような表情で笑みをこぼす。
「良い顔するようになったね」
「そうか?」
「出会った時の、死にそうだった顔とは大違い」
はは、と小さく苦笑い。あの時は死が隣にあるような状況だったから。それでも、短時間でこんなに変われるものなんだなと、自分でも驚いている。
「……実はさ、言ってなかったけど夢があったんだ」
「へえ、言ってみなよ」
「俺、下の名前で呼び合う友達が欲しかったんだよな」
俺の言葉を聞いて、彼女は意表を突かれたように、ぱちぱちと数回瞬きした。かと思うと、すぐに手を叩きながら大爆笑をしてきた。
「良いじゃん、夢が叶ってさ」
「ああ。これも全部、君のおかげだよ」
「良いの、これが仕事だし。それに、頑張ったのはアンタ自身なんだから」
少し片口角を上げて、ニヤリとしながら彼女は笑い、俺の胸元に拳をあてる。
「もう大丈夫そ?」
「ああ、本当にありがとう」
彼女の手に自身の手を添えれば、変わらずに冷たさが俺の手のひらに伝わってくる。これから先に、こうした冷たさに触れる機会がないことを願いたい限りだ。
「君も、大丈夫そう?」
「はは、やっぱりアンタは優しいね。私にも心配してくれるんだ」
「当然だろ。君は俺より年下で、まだ学生、子供なんだろうから」
今では十八歳で成人扱いだけれど、目の前の彼女がもう十八歳かは分からないし。もし未成年だったら、まだまだ守られるべき立場だ。それはきっと、人間だろうと天使だろうと変わらないと思う。
俺の言葉を聞いて、彼女はまた数回瞬きをして、仄かに笑みを浮かべた。
「本当、バカみたいにお人よし」
馬鹿にされているわけではないのは察することが出来たので、彼女の表情を見てつられて薄く笑みがこぼれた。
「昴~! スマホあった?」
少し遠くから大きな声で呼びかけられた。ハッと意識を戻して、慌てて振り向く。
スマホを手に取って、その手を大きく振って、無事にあったことを示す。
「あった! ついでに電話してた!」
久しぶりに大きな声で友人と対話した気がする。相手はすぐに頷いて、早く来いと手招きしている。どうやら行く場所は決まったらしい。
再度後ろに目を向けて笑みをこぼす。
「君も、これから幸せになれますように」
「そのまま返すよ。……何事も程々にね」
その言葉だけを言って、一陣の風が吹く。風によって髪の毛が少し暴れて、髪の毛やごみが目に入らない様にと目をつぶり、風が止んだと同時に瞼を開ける。そこには、金髪の髪を揺らす天使の姿はもうなかった。