置いたまま、明るく灯ることも音声を流すこともないテレビ。話題になっているからと買って流し読みだけした、山積みの漫画。レポート作成の時くらいにしか使うことのないノートパソコン。流行や見目が綺麗に見えたら十分な、洗剤にも気を遣っている服。俺の部屋には、偽りの自分にそっくりな姿をしている。
 ゆっくりとベッドから出て、布団を綺麗にたたんでおく。とりあえず簡易キッチンに向かう。ペタペタと裸足とフローリングがくっついては離れる音が、小さく聞こえた。少しだけ腰をかがめ、独り暮らし用サイズの冷蔵庫を開けば、小さく唸り声を出して冷気がこぼれる。
「……ハムと目玉焼き」
 本日の朝食用の米は用意されていなかった。いつもだったら準備していたのだけれど、何故。
「ふぅん、料理するんだ」
 後ろから女の子の声がして、大きく体が飛び跳ねる。慌てた際にぶつかったのか、冷蔵庫の扉が閉まる。驚いたまま振り向けば、金髪ギャルがそこに居た。
「意外だな。こーゆー人って料理しないと思ってた」
 こーゆー人、と言われてすべてを思い出す。昨夜に何が起きて、どうして目の前の彼女がまだここに居るのかを。
「夢じゃなかった」
「残念だったね」
 昨夜、俺は自殺未遂を起こした。正確に言えば、未遂の未遂レベルだっただろうが、行動はしていたから未遂に入ると思っている。どうして行動したかは分からない。はっきりとした感情があったわけではない。ただ、俺の心が自分に「助けてあげたい」とか言っていた気がする。
 死は救済だと、そう認識している自分が存在しているのだと、少しだけ怖くなった。実際に、この少女に馬鹿呼ばわりされて止められたので。俺の方が年上だと思うのだが、実際に馬鹿なのだろうから、反論はできない。
「君はいつまで居るんだ」
「アンタが大丈夫になるまで」
「じゃあもう大丈夫だ。今の俺は死のうと思ってない」
「課題を途中放棄するわけにいかないのでダメでーす」
 真面目な学生みたいな言い草だ。人の命を課題と呼ぶのは、少し趣味が悪いと思う。
 フライパンの上で油によってぱちぱちと小さく踊っているハムの上に、片手で割った卵をその上に乗せた。白身が、透明から一気にその名の通りに白くなっていく。水を少しだけ入れて蓋をして蒸す。
「料理好きなの?」
「そこまでではないかな。作っているときは何も考えなくて良いからやる程度。それに」
「それに?」
「料理が出来る、というのは評価が高いだろう?」
 小さく口角を上げ、フライパンに被せていた蓋が開かれる。卵が焼かれる匂いと、香ばしいハムの匂いが湯気と共にふわりと立ち上った。お皿の上に乗せておいた、トースターで焼き、良い塩梅に焦げ目のついた食パンの上に、ハムエッグを乗せる。それと牛乳をコップに注ぎ、それぞれをもって部屋に置いてある質素なテーブルの上に乗せる。
 いただきます、と小さく声をこぼしてからパンにかぶりつく。目玉焼きは予定通り半熟だったようで、黄身がとろりととろけ出てきたので、垂らさないように慌てて口に含んだ。
「男子ってもっと食べないの?」
「人によると思うけど、俺は同性の平均からすれば少ない方だと思う」
 昔から、多く食べられるわけではなかった。給食も、先生に怒られない様に必死に完食していたものだ。男なんだから、と押し付けられる時が本当に最悪だった。俺は、沢山のカロリーを求める体質をしていない。同年代の運動部のように、どんぶり何杯も食べられるわけじゃない。無理に体に押し込めば、全て吐いてしまう。
 食事を簡単に終え、身支度も簡単に済ませて、そろそろ学校に向かう時間だ。このアパートからだと、バスで通うことになる。
「君はどうするんだ」
「ついていくかな」
「成程」
 観察対象、というところだろうか。まるで容疑者を見張る警察官のようだな。
 家から出て扉の鍵を閉めて、ちゃんと戸締りできているかドアノブを捻って扉を引いたり押したりしてから確認して、アパートを後にした。
 少しだけ歩いた先にあるバス停には、すでに何名かが並んでいる。並んでいる人達に倣うように、ポケットからスマホを取り出してそのままいじっていると、ポンと肩を叩かれる。そちらに顔を向ければ、同学科の同級生が居た。
「よ、昴!」
 にこにこと笑みを浮かべながら挨拶をされ、俺も合わせるように『人当たりの良い笑顔』を返す。
「おはよう木下」
 キモ、と俺の後ろでギャルが声をこぼしたのを聞いた。天使、という言葉から予想はしていたが、やはり他者には彼女の姿は見えないようだ。だが、他人に姿が見えないことを良いことに、俺への暴言を吐くのは止めて頂きたい。
 やってきたバスの二人掛けの席に並んで座り、木下の話を聞く。彼は話すのが好きだから、相槌をうって偶に質問をすれば良い。マニュアルのようなものだ。
「そうそう、昨日テレビ見た?」
 昨日という単語で思わず体が固まる。昨夜は自殺未遂を起こしていたので、テレビどころかスマホもまともに見ていません。なんて言えるわけがない。
「悪い、寝落ちしたんだ。何見た?」
「それがさ芸能人のぶっちゃけトークみたいな」
 身振り手振りで説明をされる。ゲストの俳優やアイドルなどの、隠し事は無しで話すという番組だったらしい。その中には、学生時代の友人の話を話題に出す人もいたんだとか。
「だからその話聞いて、ふとお前が頭に過ってさ。お前と友達になれて良かったって改めて思ったんだわ」
 俺の名は木之上昴(きのうえ すばる)、彼の名は木下七絃(きのした なお)。苗字的に並ぶのは安易に想像できるだろう。入学式の時、彼は隣に座っていた俺に声をかけてくれた。そこから、俺ともう一人の友人を含めた三人でずっと一緒に過ごしている。
 黒色で坊主より長い程度の短髪を持つ容姿は、高校時代の運動部の様な明るい人物に見せてくれる。真っすぐで光にあふれている瞳とも合わさって、彼の周りにはよく色々な人が集まる。
「友達になりてえなって思って声掛けたら、結果スゲー良い奴だし、優しい奴だし」
 ズキ、と心が痛む。良い奴は、自殺なんてしようと思わない。自分を殺そうとはしない。
 罪悪感は日々募っていく。良い奴だと思わせる。本当は相手の心なんてどうでもいい癖に、己を守るためにただ偽り続ける。
 この世界に逃げる場所なんて存在しない。どこに行ったって同じだ。
 大学などで多くの人と出会ったって変わらない。今いる世界を、上手く生きていくしか方法はない。まあ、そのくせに苦痛を感じて逃げようとして、結果として逃げられなかったわけだが。
 小さく自虐的な笑みがこぼれる。
「何笑ってるんだ?」
「ん? ああ、思い出し笑い」
「そーゆー奴ってスケベらしいぞ」
「止めろって」
 にやにやと笑いながら脇腹を小突いてくるのを、俺は笑いながら少しだけ逃げるそぶりをした。
 目的地までバスに揺られること数十分。通っている大学までたどり着いた。
 大学には色々な人が居る。その大学で学べる資格さえあれば、どの年代や性別の人でも通えるからだ。それに十八歳から成人として扱われるようになるから、高校までの堅苦しいルールに従うことが少なくなる、というのもある。まあその分、大人の一人として括られてしまうので、自己責任など自分の身を守る――社会のルールを守る――必要が出てくるわけだけど。
 それでも自由に一歩を踏み出した人々は、それぞれの個を表に出すようになってくる。それが見目に出るか、内面に出るかは人それぞれだが。
「おっすー、昴と七絃」
 同学年の仲間、行動を共にしている三人組最後の人物が俺達の元にやってきた。
 彼は空沢紫希(そらさわ しき)。名は人を表す、という言葉がぴったりなように、透き通るような爽やかな名と雰囲気、容姿を彼は持っていた。基本的に優しく穏やかな性格で、容姿はサラサラな亜麻色の髪、人当たりのよさそうな笑みを常に浮かべている。どうやら接客系のバイトもしているので、その場ではさぞかしモテているのだろう。
 木下がつられて返事をしたので、俺も笑顔を作って挨拶をする。
「おはよう」
「昴は相変わらず爽やかだね」
「そんなことないさ」
 本当はそうふるまってはいるのだけれど。己の好きを前面に出して、周りの目を気にしない二人を、俺は少し羨ましがっていた。
 個性がある、己に正直である、好きを口や態度で示せる。それは素晴らしい才能だと思う。人の目を気にし、他人の意見を気にし、無駄に良い人の皮を被る、そんな俺からすれば才能と思わないとやっていけないと思った。
「そういえばバ先で、俺らの写真を見せたら、後輩が昴達の事かっこいいって言ってたんだ」
 どう? この子なんだけど。そう言いながら、木下が俺と空沢にスマホの画面に映る写真を見せてきた。柔らかい茶髪のストレート。前髪を維持するのは大変そうだな。目はぱっちりと二重で、可愛らしいと括られる女の子だった。
 俺は眉を下げて、本当に申し訳ないと思わせる顔をして、苦笑いを浮かべる。
「うーん、ごめんな」
「俺も」
「またダメか! 二人は難易度たっけーな」
「いや、その子がダメってわけじゃなくて。本当にかわいいとは思うよ?」
「じゃあ実際に会ってみねえ?」
 必死にフォローをしていたら、顔合わせの誘いが来てしまった。思わず口角が引きつる。相手の目は輝いている、この場の空気を悪くさせないための、最善策な答えは……。
「しばらく課題とかバイトとかあって忙しいから、それで大丈夫なら、だな」
「あー、それならしょうがないかな」
「七絃、大体お前は課題大丈夫そうなのか」
「う、それもそうだった」
 空沢がフォローに回ってくれて、内心安堵する。
「本当にごめんな。そう、先生に用があるから、先に行ってる」
 手を振れば、二人も笑顔で手を振り返した。少し駆け足気味で建屋に入って、周りを確認してから、深いため息を吐いた。
「逃げたね」
「うわ、びっくりした。そうだった、居たんだったね」
「アンタも大変そうなことで」
 同情のこもった溜息を吐かれた。改めて問いたいけれど、俺の方が年上、だよな?
 再度息を吐いてから、前髪を思わず掻き上げる。そんな俺の姿を、金咲さんはじっと眺めていた。
「バイトも嘘でしょ? 嫌だったらはっきりと断ればいいのに」
「え、嫌そうな顔してた?」
「いや? 顔には出てなかったよ。あの人も気づいてないし」
 気付いていないのなら一安心だ。ホッと安堵の息をこぼす。
「それで? なんで断らないの」
「あそこで嫌だとか言ったら、ノリが悪いとかで嫌われるかもしれないだろ」
 小さく笑えば、彼女は眉を寄せてから、顎に指を添えて「成程ねえ」と呟いた。少し真剣そうな顔が、年相応に見えて何だか可愛らしく見えた。
「さて、色々と考えないと」
「色々って?」
「バイト。嘘だとバレないように事実にしておかないと。それに、お金は必要だ。人付き合いにはお金がかかる」
 はあ、と再度深いため息を吐けば同情の目を向けられるのだが。どれだけ俺は彼女にそんな顔をさせるのか。彼女とは意見の食い違いが本当に激しいらしい。
 バイトはどういうところが良いか、と早速スマホで調べようとすると、彼女に声をかけられる。
「ん?」
「なんでアンタはそこまで人付き合いに力を入れているの? 小さな嘘も、大きな嘘もついてまで」
「そりゃあ、人間、繋がりは大切だからね」
「違う。何がそこまでアンタを偽らせないといけないのかって理由」
 スクロールしていた指を止めて、画面の電源をオフにしてポケットにしまう。彼女の言葉に小さく苦笑し、敵わないなと悟る。
「まあ、それは今日の帰りに話すよ」
 それより、急がないと授業に遅れてしまう。先に一人で脚を進めて、先程別れた彼らが待つ教室に向かう。