「強くなったじゃん」
「わっ、びっくりした」
 教室から玄関の方へ向かおうとしている際に、階段の踊り場からひょこりと顔をのぞかせたのは星叶だった。少し駆け足気味だったので、慌てて足を止めると、彼女がゆっくりと浮遊しながら私の横に並ぶ。
「強くなっている、のかな」
「そうそう。出会った時と全然違う。目に光がある」
「そんなにひどかった?」
 目元に手を添えて、思わず苦笑い。踊り場にある大きな鏡の方へ顔を向ける。そこには確かに、少し前までの火燈蛍とは違う火燈蛍が映っていた。ストレスによる不眠も減りつつあったから、隈も薄くなってきた。そして彼女の言う通りに、今までずっと濁った泥沼の様だった瞳に、キラリとした光が一筋射しこんでいた。
 それこそ綺麗な海だとか、湖だとか、そうしたものに近づくには時間がかかるのだろう。それでも、私は光を手に掴んだ。己のモノにしたのだ。
「助けてくれてありがとう」
 私の言葉を聞いて彼女は目を丸くした。そしてすぐに笑みを浮かべた。
「よく頑張ったね」
 頭を撫でられた手は変わらず冷たかったけれども、彼女の言葉のぬくもりによって、私の心は簡単に温まった。
「けれど暁音さんの姿で出てきたの驚いたよ。それに写真とか」
「上司に頼んだし、少し渋られた」
「妥当だろうなあ」
 他愛ない会話をしていれば、玄関に辿り着いた。硝子戸の向こうには両親の姿が見えて、慌てて靴を履き替えて、待っている両親の元へ小さく手を振りながら駆け寄った。

 玄関前に停めていた車に乗り込む。帰るまでの車内は静かで、家に着くまで誰も口を開かなかった。私が率先して口を開くような立場でもないだろうから、ずっと黙っていた。

 家に着けば、制服も濡れているし疲れもあるだろうということもあって、お風呂に入った。シャワーを流しながら温まっていくことで、体は勝手にホッと安堵していく。鏡に映った自分は、学校に見た自分と変わらない。鏡に映る己の顔付近に手を添えて、輪郭に沿って指先で水滴を馴染ませながら撫でた。
 湯船でゆっくりと休んでから服を着て、ダイニングで待っていた両親と向き合う。二人共、顔色はまだよくない。当然と言えば当然、なのかな。自身の娘がいじめられている、と知らされた親は皆こうなるのだろうか。もしかしたら、ならない人もいるのだろうか。それだったら、私は心の底から両親に感謝をし、謝罪もしなければならない。
「今まで言わなくてごめん」
「……どうして言ってくれなかったの?」
 母が目に涙をため、薄らと流しながら言う。その姿を見て、私を本当に大切に思ってくれているのだと察せられた。
「……弱いところを誰かに見せる勇気がなくて、怖かったから」
「それは、私達でも?」
「うん。ていうか、家族だからこそ、かもしれない。心配かけたくないとか――」
 ここまで言って、小さく呼吸をする。吸い込んだ酸素は薄くて、言葉を紡ぐのに足りないんじゃないかとすら思われた。
「申し訳ないとか、見捨てられたら怖いなって考えちゃって」
 言った。子を想う親に対して、最低な言葉を私は口にした。
 自分の言葉を述べてから口を噤んで、唇をかみしめる。覚悟している。なんて言われるのかを。
 親を信じないなんて最低。そんな言葉が来てもおかしくないな、と身構えていたのに、私の体が柔らかい何かに抱きしめられた。
「そんなこと、あるわけないでしょ」
 柔らかくて、温かくて、ふわふわと安心させてくれるようなにおいがして。ああ、この人から生まれてきて、この腕の中に抱かれて生きてきたんだなって分かると、心が穏やかに安らいでいく。
 私が死を選ぼうとしたと知って、両親はどう思っただろう。考える限りでは、相当なショックを与えたのだろうな。もしかしたら、消えない傷を負わせてしまったのかもしれない。けれど、傷ついてくれる人がいたんだと分かって、少しだけ嬉しいと思ってしまった私は、本当に最低な人間かな。
「もう全部が嫌になって、投げ出してやろうと思ったの。そうしたら、友達が止めてくれた」
「さっき言っていた、その子?」
 その子とは、多分、星叶のことだろう。
「そう。もう少しで会えなくなるんだけど、沢山勇気をくれた。大切なものをもらった」
 抱きしめられる腕に力が込められた。
「それでね、今回の事もあって、お願いがあるの」
「うん、なあに?」
「……私、進学先をもう少し考えたい」
 母が離れた後、自身の胸元に手を添えて、真っ直ぐと己の言葉を主張すれば、両親はそろって目を開く。
 当然かもしれない。今までずっと、私は進路がずっと決まっているような人だった。何を言われても、進学先を頑なに変えなかった。そんな人物が、考え直したいというのだから。
 今の時期から進路先を変えるのは、無謀という人もいるかもしれない。上のレベルを受験したいとなれば、もっと努力だってしないといけないし、学校の事もまた調べなおさないといけない。本当はもっと前のうちにやるべきだったことを、今の時期にやろうとしているのだから。
「今日居てくれた子が言ってた。『知識って、自分や大切な人を守る手段でもあると思う』って。その言葉を聞いて、ああ、そんな考えもあるのかって感動しちゃって」
 胸元で手を組みながら服を握りしめる。自然と祈りのような感情も相まっていたのかもしれない。
 どうか、否定しないで。
 そんな思いが、震える声として口から出た。
「だから、もう少し大学を選んで、そしてそこで私は色々なことを学びたい。今度は私が人を救えるようになりたい」
 救うには色々な道があると思う。星叶のように苦しんでいる人に力を与えるのか、暁音さんのように傍に寄り添うことなのか、店長さん達のように居場所を提供して見守ってくれるのか、両親のように他人の為に動くことが出来るのか。私はまだ決められないから、沢山の事を学べる時間を得るために、色々な道を選べるようになる大学に行きたい。
「きっとお金だってかかる。それは私みたいな子供じゃ無理なことも多いと思う。だから……!」
「協力する」
 お父さんの言葉に、少しだけ伏せ気味だった顔上げる。見えた両親の顔は、自分の想像とは反対に嬉しそうな表情をしている。
「ずっと気がかりだった。蛍は文句もやりたいことも不安も口にしなかったから」
「ご、ごめん」
「でも、言えるようになったんだな」
「成長したのね」
 その言葉がひどく嬉しくて、呆然としていた私の目から涙がこぼれ頬を伝って、床に弾けた。それが引き金となったのか、ボロボロと涙がこぼれ出てくる。
「頼っても、良い?」
「大事なことだぞ。一人じゃどうしようもならなくなったら、誰かに頼るんだ。でないと、実は誰もお前に頼れないものだ」
「子供が親を心配するなんて、まだまだ早いわよ」
 唇をかみしめてボロボロと泣き続ける私を、今度はお父さんを含めた二人が抱きしめてきた。
「蛍は、私達の大切な子よ」
 家はまだ居場所じゃない。出会ったばかり時の星叶はそう言った。きっと、こういうことだったのだろう。今までは私が勝手に距離を取っていただけで、それに私が気付いていなかっただけで。気付けた今はもう、ここも私の大切な居場所となっているのだ。


「……本当にありがとうね」
「いいの。良い経験が出来たから」
「何それ嫌味?」
 自室に戻って、私と星叶が向き合っている。
 世界はすでに赤い光の中にすっぽりと飲み込まれていて、その光に照らされて沢山の木々がオレンジ色に染まっていく。眩しい太陽が見える窓の方へ向けて顔を向け、ぽつりと呟く。直接見るには眩しすぎるから、手で屋根を作って、少しだけ眉を寄せて。
「それでも何度も言うよ。あの時星叶が声をかけてくれなかったら、私は、死んでいたかもしれない」
 これが最後になるのだろう。自然と脳が理解していた。だから、ぽつりと、小さな子供が親に謝るようなか細い声で、星叶に礼を述べた。
「こちらこそ。生きるという選択肢を選んでくれてありがとね」
 彼女の声は温かかった。声と一緒に、少しだけ細められた瞳は、お母さんやお父さん達が私を見る時の目によく似ていた。
 気持ちがしんと落ち着いてきて、穏やかで平和な気分に満たされる。何かとても大事な、温かな、ふわふわとしたものが、心の隅っこに隠されているような気がした。
「最後に、なんかお礼できる?」
「しなくていいよそんな」
「でもさあ」
「良いの。次は誰かが困っているときに、アンタが力を貸してあげればいい。世界はそうやって回ってるんだよ」
 私の中では友達という立場となった彼女と別れるのが寂しくて、少しでもお別れの時間を伸ばしてみようと思ったけれど、彼女にはお見通しのようだ。最後まで敵わない。
 そろそろ夕日も沈み切るだろう。そんな世界の色になってきたころ、星叶の身体が光りに包まれて、いつもよりも高く地面から足が浮く。その姿を見て、一瞬で理解する。私を助けてくれる天使の金咲星叶とはお別れだと。
 足に力を込めて、必死に踏みとどまって、込み上げてくるものすべてを飲み込みながら耐えた。
「星叶」
 今にも消えてしまいそうな、そんなか細い声だったのに、彼女は気が付いて私の顔を見た。だんだんと見えなくなっていく彼女の姿を、必死に瞳へ焼き付けた。
「星叶のこと、これからも友達だと思ってても良い?」
「……あはは! アンタって本当に頭いいのにばか。好きにしなよ。私はそう思ってるけど」
 何かが瞬く間に私の中で膨らんで、胸をいっぱいにし、他の感情の一切を押し潰してしまった。彼女は初めてくしゃりと少しだけ皺を寄せながら笑みを浮かべた。
 彼女の笑みを最後に見ると同時に、部屋の中で眩い閃光が充満する。その光に、思わず目を閉じた。寂しさもあるはずなのに、不思議と心は凪いて、それと共に温かさに包まれている気がした。
 窓が開いたらしい。頬を少し冷たい夜の秋風が撫でる。
 閉じた瞼を開けた時、天使の姿はどこにもなかった。窓に寄り、いつの間にか暗くなっていた空を仰ぎ見れば、星が瞬き始めていた。