「亡くなっています、佳芳さん。」
一色が赤い指先を揃えて合掌した。
「な、なぜ…そんな」
「額に致死的な損傷を負っている事以外は何もわかりません。」
兎乃は恐怖に打ちひしがれて、じわじわと目に涙を溜める。突然のことで何がどうしたのかもわからなかった。
手先が震えて震えて、呼吸するのも空気が喉につっかえた。
「兎乃さん、まずは手を洗いましょう。」
「で、でも!そんな事したらもしかしたら私が佳芳さんを」
殺したのではないかと責め立てられるのではないか。そんな思いが頭をよぎった。
「大丈夫、まだどこに何に頭を打ち当てたのかもわからない。貴女がやったなんて誰にも言えない。」
一色は首元をナイフで切りつけられたような苦しい顔をした。彼だって沈着に見えて辛いのだ。
「さあ、洗いに行きましょう。汚れますから、キッチンがいい。」
「はい。」
支えられながら何とか流しまで歩いて、爪の間まで綺麗にして帰ってきた。しかし、血で汚れる前の手には一生戻れないんだと思うと吐き気がした。
「私を起こしてくれてありがとうございます。それだけで落ち着いた判断力ですよ、私立探偵に頼ってくれたのでしょう?」
安心させる温かい声で語りかけた。兎乃はそれに頷くことでしか返答が出来ず、いつまで経っても泣いたままなのが情けなく感じた。そのまま伝えると仕方のない事だと彼は綺麗になった手で背中を摩ってくれた。
温もりを感じる、大きくて強い手。
兎乃はそれからずっと、一色の袖をぐっと掴んで隣から離れないでいた。彼はそれに対して何も口にはせず、これもまたずっと彼女を受け止めたまま傍に居た。
「テーブルに血溜まりができています、手はこれで汚れたんでしょう。額に硬い何かに当たったような傷があります。でもうつ伏せの状況から見てテーブルに打ちつけたと思うのは安直すぎるかもしれない。」
彼はハンカチで落ちてくる佳芳の髪を止めて、赤くなった額をじっと観察していた。
もう息をしていない、固まった冷たい体がただ空の容器として残っている。そんな気がして、また涙が何筋も頬を伝っていった。首に流れ、鎖骨を濡らし、胸元に隠れていった。
一色は紺のハンカチを広げると、佳芳の頭部に被せた。そうすれば、真っ赤になった傷跡と彼女の顔が見えなくなってより一層死者としてしか存在しないことを意識させた。
「さて、いつまでもこうしてはいられないですから。まずは東堂さん、その次に鮎澤さんを起こしましょう。」
「え、京司さんを先に起こさなくていいんですか…?」
そう返すと一色は首を横に振った。
「貴女は伴侶の死を目の前に突きつけられて正気でいれますか?」
兎乃は表情を曇らせてそう訊いた一色の腕をぎゅうっと強くしがみつく。返事のつもりだった。
「恐らくこの中で多少理解が早そうなのが今言った二人です。記者に弁護士ですから、一瞬顔色を悪くしても対処に協力してくれるでしょう。ね。」
「はい、では、私は曜さんを起こしますね。」
「お願いします。」
兎乃はゆっくりと座っていたソファに戻っていき、まだ息をしている彼女を見つけた。ああ、よかったこの人は生きている。
「曜さん、起きて。」
何度も何度も呼び起こして、やっと目を覚ませばまだ酔いが抜けていないのか眠気が飛んでいかないのか半目開きで兎乃を眺めた。
それを眺め返しながら、兎乃は曜と二人で戻ったら一色の腕には頼れなくなると思った。未だに怖いのに、一番最初に見つけて一番怖いのに。私が泣きたいのに。
「曜さん、大声出したり驚いたりしないでください。皆さんを起こさないように。」
きょとんとした顔で小さく頷く。彼女を連れて、佳芳の前まで歩いていく。
東堂もまた、一色に起こされ向かってきた。眼鏡を外して目頭を摘んで
「いつの間に寝ていたんだ…どうしたんです。杜若さんに鮎澤さんまで並んで。」
と小声で話した。一色に大声を出すなと言い止められたのだろう。
「とにかく驚かないで聴いてください。國近佳芳さんが亡くなられました。」
一色が冷ややかな声で突き離して言った。それは映画の冒頭に浮かび上がってくる詩的なテロップみたいに現実味がなくとてもこの世から離れた物だった。
もう、この探偵の中では一つの事故事件として書き記されただただ彼の心の中に積み上がっていっているのだ。
「今さっき確認しました。」
ハンカチを取ると、赤い液体が光った。兎乃が思っていたより、血液は美しく輝くのが嫌で嫌で頭痛がした。
「嘘。」
曜は口元を手で覆って、つうっと涙を垂らした。東堂は一瞬で目を背ける。
一色がそれからも、何か二人に伝えていたようだが兎乃には聞き取れなかった。大きなショックで、聴覚が遮断されつつあった。耳ばかりではない。胸の辺りにぐるぐるとした不安感が充満する。目元が紫煙のような白い物で隠されて何も見えない。
「兎乃さんが、私を起こしてくださったんです。」
「え、じゃあ最初に見ちゃったの?」
「それは…怖かったですね。よく叫ばなかった。」
見ちゃったなんて、いけないものみたいに言わないで。数時間前までは一緒にこの部屋で息を吸って吐いて会話して笑って楽しんで心を開きつつあったのに。
叫ぶだなんて言って彼女を恐ろしい存在にしないで。優しくて綺麗で柔らかい茶髪が風に靡いて、その声は鶯のように甘美だった。さっきまでみんな慕ってたのに、それは嘘なの!?
何故あなたたちが怖がるのよ!?
兎乃は言えない思いを泣きながら一色の背に隠れることで落ち着かせた。彼は黙ったまま俯いた兎乃の前に手を広げた。そっとそれを取る。
「言い詰めたら良くないですから、あまり…。東堂さん逢君に説明をして連れて来れますか。鮎澤さんは牧さんを。」
それから逢と牧も事情を話され絶句し、その話し声に京司が意識を取り戻した。
取り戻してしまった。
「京司さん…」
兎乃が一色の背から立ち上がった彼の表情を覗く。
瞳孔が迫るように広がり、きっと目を見張った。虹彩が淀んで濁った。
兎乃は彼が風化でもして消えてしまうのではと感じた。
髭が剃られた綺麗な肌に微かな音を立ててひびが入っていく。赤い唇から砂が零れ落ちる。
髪が抜け落ち、爪が剥がれ、皮膚がめくれていく。血の気が波のように引いていった。その波は永遠押し返すことも戻ることもない、絶対の別れ。
ゆっくり彼だった欠片が落下していく。床に触れるたびに跳ねて散った。肉が離れ血が宙に浮き蒸発して特有の匂いだけを残して消えた。
白い骨にもところどころ亀裂が入って、その粒が弧を描き最期に踊って居なくなった。そうやって京司は消滅する。
「何で…」
「…京司さん、佳芳さんは」
「いいです。」
涙を溜める眼に前髪が影を落とした。手で一色の声を遮る。
「二人にさせてはくれませんか。」
皆は黙って部屋を出て、扉を静かに閉めた。東堂と逢が玄関の方までの廊下を進んで、ロビーの椅子に腰をかけた。
大きくなり始めた嗚咽がリビングから聞こえ、兎乃も二人を追うように歩く。彼の、京司の泣き声を耳にしたくなかった。
曜は顔を洗いに行き、牧は窓の外をじっと見つめながら立ち尽くした。
一色は、いつまでもリビングの扉の前に検問のように突っ立っている。
兎乃は何をしているのか、何がしたいのか、これからどうしたらいいのか答えの見つからない問いをただ脳内に書き出してそれを眺めていた。
眺めながら、自分がしっかり息をしていることを感じて確かめる。口の中で大丈夫生きてる、と独白した。
ロビーや廊下にそれぞれ居る者たちの息遣いや、動きや足音もまた間違いなく発せられていたし聞き取っていることができた。
その時、京司の咽び泣く声がくたっと止んだ気がした。そう思った時にはリビングの扉は開き、前に居たはずの一色が居なかった。彼は部屋に戻ったのか京司が呼んだのか、どうしたのだろうと小走りで向かうとそこには二人が這うように横になっている。
「ど、どうしたんですか!?」
「京司さんが」
「二人にしてと言ったでしょう!!何故入ってくるんです!死なせてください!」
辺りを注視すれば、カーテンレールの部分にネクタイが丁度頭が入るほどの輪を描いて結ばれていたのを見つけた。
「…まさかとは思いますが…そこで首を吊ろうと思ったんですか。」
京司が涙を流しながら睨む。
「いけませんか。」
「いけないでしょう!」
一色が怒鳴るように大きな声で吠えた。
「駄目です、こんな…」
「ええ駄目です。こんなレールの中央でやっては体の重さに耐えられずに折れます。」
兎乃は倒れている京司に目線を合わすように自身もしゃがんで、
「さ、立ちましょう。」
と手を差し出した。
その会話を聞きつけ何があったのだと皆が戻ってくる。騒がしくなりつつも、朝食を囲んだテーブルにそれぞれ座った。
しかし京司は揺り椅子に腰掛けたまま、ただ放心した様子で佳芳の伏せた顔を見つめていた。