「猛獣は誰でしょう。」
「え?」
「はい?」
一色は訊き返す。
「だから、幼女を喰った猛獣は誰なんだろうって。」
「ああ、それね。」
曜はニヤリと笑って、ワインのグラスを円を描くようにくるくる回した。まだまだ一日も始まったばかり。太陽の光も燦々と眩しく降り注ぎ明るいというのに、彼女はアルコールを欲していた。
ただ好きでそうしてるのか、それとも無自覚に酒に依存しているのか、一色にはもうわからなかった。
「長老とか。幼女は本当は母親と長老との子供だとかないかしら。確固な証拠はまだ見つかってないからなんとも言えないけど、感覚で言っていいならそいつね。」
なるほど、と一色は頷いた。
確かに、些かぶっ飛んでいるがそのような見方もあるやもしれぬ。犯人を見極めるのは、参加者全員がそのキャラクターになりきり、話し合いを交わした後から始まる。
けれどシナリオを読んで検討をつけてもいいはずだ。
だがしかし…
「そうですね。怪しげだ。」
「貴方は?」
「探偵こそが気になるなあ。突然幼女の家族の前に姿を現すのも不自然だ。」
そう答えると曜はないない、と気取った声で否定した。
一色は意味がわからずきょとんとした顔で首を傾げて見せた。何故だろう、何かそう思わせる決定的なものでもあったろうか。
「何故です。」
「だって探偵が犯人なんてタブーだもの。」
一色は更にわからずもう一度尋ねる。今度は前のりで、少し気に食わない顔をしながら急かすように。
「何故です。」
すると彼女は
「そういうルールなの。知らない?ノックスの十戒。」
と小首傾げて言った。
言ってみせた。
「ノックス?」
ぼんやりと輪郭が見えるほどだったが思い出せる。どこかで聴いたことある名前であった、ノックス。
一色はソファ深く腰をかけて、彼女の話に耳を傾けた。國近夫妻はダイニングテーブルで顔を合わせて、佳芳は読書をし京司は英語の連なった新聞を手にして他の者を待っていた。
「ノックスっていう聖職者が居たの、推理小説も書いてたみたい。その人がミステリのルールを決めたのよ。探偵は超自然能力とか第六感を使っちゃいけないとか、中国人を登場させちゃいけないとか意味わかんないのもあるの。差別じゃない。」
はあ、と呆れたように吐息を漏らして曜は脚を組み直した。
彼女の視線がワインのグラスをしっとりなぞる。その様態がなんとも、雄の情欲を掻き立てて少年を誘惑しそうだった。
一色は本能を理性で抑える。実を言えば香水に噎せ返りそうであったし心底鬱陶しくも感じていたが、自身が所詮人類という動物なのだと自覚した。一つの屈辱でもあったし、自分に失望してもいた。
「中国人ですか。それは理不尽だ。理由はあるんです?」
訊いておいて少しずつ記憶が蘇ってきた。
これも、幼少期家の書庫に埃を被らせ埋まっていた本を見つけた時、作中でノックスの十戒が書き記してあった。
父が昔よく読んだんだと語っていたのも、重なって思い出される。会話の少ない家庭だったが、それだけが鮮やかに一色の心に染み込んでいた。
「理由は、」
理由も確か理不尽だったはずだ。
「中国人はモラルに欠けるんですって。やんなっちゃう、先人もいい加減だと思わない?」
「ええ、そうですね。」
一色は曜の真似をするように顔を顰めた。
「あと双子とか一人二役は読者に知らせてないといけないとか、さっき言った通り探偵が犯人じゃだめとかね。色んな意見があるだろうけど私に言わせれば理にかなった物もあるの。」
確かに双子の片方が存在を隠し共犯していたとしたらアリバイはがっちり固められ、証拠もゼロに近しい完全犯罪になりうるだろうし、探偵や捜査陣自身が事件の発端なら読者にうんざりされてしまうのだろう。
現実ではそんなことお構いなしに、凶悪事件も起こるのだが。
「なるほど、そういうことですか。ではその十戒に倣ってこのシナリオも組まれていると。」
「でしょうね。」
それから二人は佳芳が淹れてくれた紅茶を飲み―曜はグラスのワインはぐいと飲み切って―他の者を待ちながら、言葉を交わしていた。
窓が一色の掌ほどの隙間を開けており、風が吹いてシースルーのカーテンが花びらのように揺れる様が美しかった。
一色は、年齢を重ねるごとに日常に散らばった星屑を更に美しく愛おしいと思うようになったのを感じていた。
自分の観察眼の成長なのか、それとも人間とはこういうものなのかそれはわからなかったが結局嬉しいものだったのだ。
長い時間が過ぎたような感覚だったが、それよりも実際の時間は短かったらしい。
5分ほどして兎乃が部屋の扉をノックした。
「兎乃さん。」
終わったんですね、と一色は即座に振り向いて話を振った。
兎乃は柔らかい笑顔を見せて、はいと機嫌良さそうに答える。
「ああ。どうでした?」
「少し奇妙で、怖くて面白かったです。すごいですね、妹さん。」
京司の問いに健気に応答して、両手に持ったシナリオを大切そうに胸に抱き直した。
その彼女の後ろに影が見えた。東堂と逢と牧である。
一色の瞳は彼女ばかりに囚われて、その背後に瞬時に向くことがなく気づくのが遅くなった。3人も読み終えたらしい。
「2人はや~~。ねね、どっちが一番すか?」
逢は鋭い犬歯を覗かせて、何があった訳でもなさそうなのににこにこした顔で一色と曜に問う。
「曜さんでしょう。」
「そお?同じくらいじゃない?」
嘘である。
一色が読み終わった直後に部屋の扉を開けたら、曜はすでに兎乃の前で彼女の進行状態を訊いていたのだ。
一色は彼女があなたも、と兎乃に言ったのを聞き逃さなかった。読書の終わり際に曜の声が廊下で響いていたし、東堂と逢にも同じように今どうなのか訊きに行ったのだろう。
厳密に言えば曜の方が早かった。
「そっか。」
逢はサラサラと金髪を靡かせて、ソファにぼむっと座り込んだ。
彼はウノちゃん隣に来て!と甘い媚びた声で言った。
それに悪びれもなくにっこり応じて、二人がけのそれに兎乃も腰を落とす。
「ええ、私も兎乃ちゃんの隣が良かったな…」
牧はしょげた子供のように声を絞った。
一色は東堂に視線を移した。
彼は眼鏡を片手でゆったり外して、目頭にきゅっと力を入れて皺を作った。
「やあ、いいですね。久しぶりに物語を読みました。最近は小説を手に取ってなくて。」
独り言の様に彼はその場の皆に言いかけた。
レンズにかかった気にするほどでもない塵を息でふっと空気と共にどこかへやった。
「それはそれは。お楽しみいただけたようで何よりです。では、皆様。」
京司が少し声のトーンを上げて、皆の注目を引いた。
「今からマーダーミステリを始めましょうか。…犯人は誰ですか?早く白状しろ。」
ただのタイトルコールとは思えぬ痺れるほどの殺気に、唾を飲むほどの雰囲気の変わりようにそこに居たものは大袈裟ではあるが戦慄した。
ある者は背中の鳥肌が治らなかったし、ある者は視界が水分でぼやけたし、ある者は脳内が洗濯機のようにぐるぐると意味がわからず回った。
「さてこれからターン1回目です。ご準備はよろしいでしょうか。」
京司は一変して朗らかに笑う。
しかし今さっきの不気味な雰囲気が完全に消え去った訳ではなかった。彼の声には逃げ遅れたような余韻と、気持ちの悪い後味が未だ残っていた。
その空気が一瞬澱んで、風が止まった。隣の佳芳でさえ、微かに肩を震わせていた。何がそうさせるのかは明確だったが、そもそもの原因がわからず、 一色はただただ怪訝に不可解に思って、恐ろしさも少なからず感じていた。
何なのだ。
「探偵役の兎乃さん、どうです?」
「え?えっと…皆さんを先導できるように頑張りたいです。」
兎乃は緊張したように肩をすくめて、の1人掛けのソファに座る一色に耳打ちした。
「本当の先生のお力を借りたいです。」
「あはっ、頑張ってください、兎乃さん。」
一色は綻ぶように笑いかける。
真似をした。
そこにいる皆が、頷いて了解したように見えたが、心の内ではやはり先程の彼―京司―から感ぜられたその荒々しい気配が気にかかっていた。
それは兎乃も、もちろん一色も変わらなかった。
「え?」
「はい?」
一色は訊き返す。
「だから、幼女を喰った猛獣は誰なんだろうって。」
「ああ、それね。」
曜はニヤリと笑って、ワインのグラスを円を描くようにくるくる回した。まだまだ一日も始まったばかり。太陽の光も燦々と眩しく降り注ぎ明るいというのに、彼女はアルコールを欲していた。
ただ好きでそうしてるのか、それとも無自覚に酒に依存しているのか、一色にはもうわからなかった。
「長老とか。幼女は本当は母親と長老との子供だとかないかしら。確固な証拠はまだ見つかってないからなんとも言えないけど、感覚で言っていいならそいつね。」
なるほど、と一色は頷いた。
確かに、些かぶっ飛んでいるがそのような見方もあるやもしれぬ。犯人を見極めるのは、参加者全員がそのキャラクターになりきり、話し合いを交わした後から始まる。
けれどシナリオを読んで検討をつけてもいいはずだ。
だがしかし…
「そうですね。怪しげだ。」
「貴方は?」
「探偵こそが気になるなあ。突然幼女の家族の前に姿を現すのも不自然だ。」
そう答えると曜はないない、と気取った声で否定した。
一色は意味がわからずきょとんとした顔で首を傾げて見せた。何故だろう、何かそう思わせる決定的なものでもあったろうか。
「何故です。」
「だって探偵が犯人なんてタブーだもの。」
一色は更にわからずもう一度尋ねる。今度は前のりで、少し気に食わない顔をしながら急かすように。
「何故です。」
すると彼女は
「そういうルールなの。知らない?ノックスの十戒。」
と小首傾げて言った。
言ってみせた。
「ノックス?」
ぼんやりと輪郭が見えるほどだったが思い出せる。どこかで聴いたことある名前であった、ノックス。
一色はソファ深く腰をかけて、彼女の話に耳を傾けた。國近夫妻はダイニングテーブルで顔を合わせて、佳芳は読書をし京司は英語の連なった新聞を手にして他の者を待っていた。
「ノックスっていう聖職者が居たの、推理小説も書いてたみたい。その人がミステリのルールを決めたのよ。探偵は超自然能力とか第六感を使っちゃいけないとか、中国人を登場させちゃいけないとか意味わかんないのもあるの。差別じゃない。」
はあ、と呆れたように吐息を漏らして曜は脚を組み直した。
彼女の視線がワインのグラスをしっとりなぞる。その様態がなんとも、雄の情欲を掻き立てて少年を誘惑しそうだった。
一色は本能を理性で抑える。実を言えば香水に噎せ返りそうであったし心底鬱陶しくも感じていたが、自身が所詮人類という動物なのだと自覚した。一つの屈辱でもあったし、自分に失望してもいた。
「中国人ですか。それは理不尽だ。理由はあるんです?」
訊いておいて少しずつ記憶が蘇ってきた。
これも、幼少期家の書庫に埃を被らせ埋まっていた本を見つけた時、作中でノックスの十戒が書き記してあった。
父が昔よく読んだんだと語っていたのも、重なって思い出される。会話の少ない家庭だったが、それだけが鮮やかに一色の心に染み込んでいた。
「理由は、」
理由も確か理不尽だったはずだ。
「中国人はモラルに欠けるんですって。やんなっちゃう、先人もいい加減だと思わない?」
「ええ、そうですね。」
一色は曜の真似をするように顔を顰めた。
「あと双子とか一人二役は読者に知らせてないといけないとか、さっき言った通り探偵が犯人じゃだめとかね。色んな意見があるだろうけど私に言わせれば理にかなった物もあるの。」
確かに双子の片方が存在を隠し共犯していたとしたらアリバイはがっちり固められ、証拠もゼロに近しい完全犯罪になりうるだろうし、探偵や捜査陣自身が事件の発端なら読者にうんざりされてしまうのだろう。
現実ではそんなことお構いなしに、凶悪事件も起こるのだが。
「なるほど、そういうことですか。ではその十戒に倣ってこのシナリオも組まれていると。」
「でしょうね。」
それから二人は佳芳が淹れてくれた紅茶を飲み―曜はグラスのワインはぐいと飲み切って―他の者を待ちながら、言葉を交わしていた。
窓が一色の掌ほどの隙間を開けており、風が吹いてシースルーのカーテンが花びらのように揺れる様が美しかった。
一色は、年齢を重ねるごとに日常に散らばった星屑を更に美しく愛おしいと思うようになったのを感じていた。
自分の観察眼の成長なのか、それとも人間とはこういうものなのかそれはわからなかったが結局嬉しいものだったのだ。
長い時間が過ぎたような感覚だったが、それよりも実際の時間は短かったらしい。
5分ほどして兎乃が部屋の扉をノックした。
「兎乃さん。」
終わったんですね、と一色は即座に振り向いて話を振った。
兎乃は柔らかい笑顔を見せて、はいと機嫌良さそうに答える。
「ああ。どうでした?」
「少し奇妙で、怖くて面白かったです。すごいですね、妹さん。」
京司の問いに健気に応答して、両手に持ったシナリオを大切そうに胸に抱き直した。
その彼女の後ろに影が見えた。東堂と逢と牧である。
一色の瞳は彼女ばかりに囚われて、その背後に瞬時に向くことがなく気づくのが遅くなった。3人も読み終えたらしい。
「2人はや~~。ねね、どっちが一番すか?」
逢は鋭い犬歯を覗かせて、何があった訳でもなさそうなのににこにこした顔で一色と曜に問う。
「曜さんでしょう。」
「そお?同じくらいじゃない?」
嘘である。
一色が読み終わった直後に部屋の扉を開けたら、曜はすでに兎乃の前で彼女の進行状態を訊いていたのだ。
一色は彼女があなたも、と兎乃に言ったのを聞き逃さなかった。読書の終わり際に曜の声が廊下で響いていたし、東堂と逢にも同じように今どうなのか訊きに行ったのだろう。
厳密に言えば曜の方が早かった。
「そっか。」
逢はサラサラと金髪を靡かせて、ソファにぼむっと座り込んだ。
彼はウノちゃん隣に来て!と甘い媚びた声で言った。
それに悪びれもなくにっこり応じて、二人がけのそれに兎乃も腰を落とす。
「ええ、私も兎乃ちゃんの隣が良かったな…」
牧はしょげた子供のように声を絞った。
一色は東堂に視線を移した。
彼は眼鏡を片手でゆったり外して、目頭にきゅっと力を入れて皺を作った。
「やあ、いいですね。久しぶりに物語を読みました。最近は小説を手に取ってなくて。」
独り言の様に彼はその場の皆に言いかけた。
レンズにかかった気にするほどでもない塵を息でふっと空気と共にどこかへやった。
「それはそれは。お楽しみいただけたようで何よりです。では、皆様。」
京司が少し声のトーンを上げて、皆の注目を引いた。
「今からマーダーミステリを始めましょうか。…犯人は誰ですか?早く白状しろ。」
ただのタイトルコールとは思えぬ痺れるほどの殺気に、唾を飲むほどの雰囲気の変わりようにそこに居たものは大袈裟ではあるが戦慄した。
ある者は背中の鳥肌が治らなかったし、ある者は視界が水分でぼやけたし、ある者は脳内が洗濯機のようにぐるぐると意味がわからず回った。
「さてこれからターン1回目です。ご準備はよろしいでしょうか。」
京司は一変して朗らかに笑う。
しかし今さっきの不気味な雰囲気が完全に消え去った訳ではなかった。彼の声には逃げ遅れたような余韻と、気持ちの悪い後味が未だ残っていた。
その空気が一瞬澱んで、風が止まった。隣の佳芳でさえ、微かに肩を震わせていた。何がそうさせるのかは明確だったが、そもそもの原因がわからず、 一色はただただ怪訝に不可解に思って、恐ろしさも少なからず感じていた。
何なのだ。
「探偵役の兎乃さん、どうです?」
「え?えっと…皆さんを先導できるように頑張りたいです。」
兎乃は緊張したように肩をすくめて、の1人掛けのソファに座る一色に耳打ちした。
「本当の先生のお力を借りたいです。」
「あはっ、頑張ってください、兎乃さん。」
一色は綻ぶように笑いかける。
真似をした。
そこにいる皆が、頷いて了解したように見えたが、心の内ではやはり先程の彼―京司―から感ぜられたその荒々しい気配が気にかかっていた。
それは兎乃も、もちろん一色も変わらなかった。