兎乃は姿勢良く座り、机に向かっていた。手には黒いインクでだらーっと長い文章が印刷されている白い紙。
彼女の目はその虫のように這う文字の羅列を真剣に追っていた。まるで、逃さまいと必死になる野生の動物のように。
それは昨夜配られたマーダーゲームのシナリオだった。
20分ほどで読みきれると言われていたので、手早く済ませてしまおうと思った。
兎乃は1ページめくり、続きをさらさらと読む。
このシナリオの内容、そして”正解”はこうである。至ってシンプルであった。
ある森で、1人の幼女が攫われた。
攫った犯人は猛獣に化けた人間。攫われたその現場には血と骨だけが残った。男か女かもわからない、けむくじゃらのその黒い塊は、幼女の家族にもその影を落としていく。
幼女の家族の中に、その猛獣に化けれる人間がいる。
一つ目の正解はその人物を”探偵”役が言い当てること。
そして二つ目の正解は、その人物がなぜわざわざ幼女を攫い、食したのか。その理由を家族役全員が突き止めること。
二つ目の正解を果たして初めて、このゲームは完結を迎えることができるのだ。
ストーリー以外にも、シナリオにはキャラクターの持ち物や性格なども記されていた。
兎乃はうーんと小さく唸って猫の如く伸びをする。
半分ほど読み進めた所で少し休憩としたかった。文を読むのは得意だが、考えながら読み解くのは慣れないものであり、苦悩している。
ふと、今一色や他の者たちはどうしているのだろうという思いが頭を過った。
朝食を終え、みんなで洗面所の前でわいわい歯磨きをして、部屋に戻ってきた。
京司が、皆さんシナリオを読み切れてないでしょう、各自読んできてくださいと言ったので、読み終わるまではこの部屋を出れないのだ。
出れない、というか下へ降りたら読み切ったと誤認されてしまう。まだまだ半分も残っているのに、集中力がまともに続かないのがもどかしかった。
3回、木が叩かれる音がした。
何者かが、兎乃の部屋の扉をノックしたらしい。
「はい。」
返事をして戸を開ければ”彼女”がいた。
「読み終わった?これ。」
静かに流れる長い髪。彼女は曜だ。
長いネイルチップをつけたその手で白い紙の束を掴んでいる。
「いえ、まだ半分ほど残ってます。曜さんはもう読み終えたんですか?」
異様な速さだと思った。個々、部屋に戻ってまだ十分弱しか経っていない。
「ええ、まあ。仕事上読んで理解すんのは早い方なの。」
なるほど。兎乃は納得した。曜のような事務所のエースのような存在の弁護士は仕事が山積みなのだろう。資料や事件内容を読解することばかりに時間を取れる訳ない。
ぱっぱと読んで、すぐにでも推理してしまうのだろうなと少し焦りを覚える。
「兎乃さんて言ったけ。あなたもまだなのね。どうしよ、下に降りてようかなぁ。」
「それならご一緒にどうです。」
予想外の声が飛んでくる。一色だった。
爽やかに微笑を浮かべてこちらに歩いてきた、彼の手にもシナリオが掴まれている。
「読み終わったの?」
「はい。つい先程。」
「そっか!じゃあ下降りましょう。あの二人はいいよね、答え知ってるんだもの。」
曜は状況を掴むとすぐさま階段へと向かっていった。一色は何も言わず、兎乃に会釈だけして彼女を追いかけるように一階へと降りていった。
「二人ともすごいな…。」
最後の一人になるのは嫌だ、と休憩はやめてまた椅子に腰掛け、じわじわ読んでいった。
文を追えば追うほど、物語は陰鬱に、暗く湿っぽくなっていった。
兎乃はバッドエンドが嫌いだった。
もしかしたらこのシナリオはいい結末を迎えないのかもしれない、そう思い始めた。
当然、ミステリなのだから誰かが傷つき、幼女が殺められ、何者かが責め立てられるのだろう。それは頭で理解している。
が、過度に酷くなりすぎると、もう切なくて寂しくてやりきれなくなってしまう。兎乃は感情の入り方が普通ではなかった。
まるで透明な瓶のように中身の液体を正確に透き通し、素直に気持ちを突き動かされる。振り子の如く揺れ動いて波を描き、一人で止まることなどできやしない。
不安が積もるように増して、彼女を苛む。目元を覆う大きい手だ。耳を塞ぐ冷たい手だ。首を絞める骨張った手だ。
正しい判断を遮って、兎乃を迷わせる。
兎乃は頭をぶんぶんと横に振って、気を取り直した。謎解きなのだから、何も物語に移入する理由などない。
答えを導き出してしまえばいいのだから。そう、美しい手でキュッと強く、紙の束を握った。