子の刻。
ペンキを弾いたような星空に紫煙がゆったりとゆらめいた。
一色は白い煙を吐き出して、静かに瞑する。
悪いことをした。
兎乃が一色の部屋を涙を光らせて去った後は昼食が用意された。
佳芳は簡単なものだと言っていたが、実際はそんなことはなく、とても手の込んだ美味たるものばかりであった。これでは五つ星ホテルの食事とも言われたとて納得してしまえるだろう。
食事の用意は牧も手伝っていたらしく、一色はなぜ早々に部屋から出、降りてこなかったのだろうと少し後悔した。
その時には京司もテーブルにつき、料理を心待ちにするように微笑んでいた。
一色や東堂が気にかけ、話を訊いてみると
「幼い頃から貧血持ちなんです、ご心配おかけして申し訳なかった。」
と、色艶のよくなった顔を一層綻ばせて答えた。それ以上のサポートも詮索もいらないものと思え、その話は以後話題にはならなかった。
彼女…兎乃は牧の隣で静かに口にものを運んでおり、笑顔が少ない。胸がちくりと痛んで、見ていられなくなった。
化粧で隠してはいるものの、赤い目元がちらと見えてしまったのが何とも言えない。
その後にはマーダーミステリなるものの説明を受けた。
マーダーミステリ。シナリオが構成され、プレイヤー自身が登場人物になりきって作中の謎の解明や推理を行うゲームである。
実際にカードを使って行うリアルのものや、オンラインで離れた相手ともネットなどで繋がりながら行うものがある、店舗ではカードを商品で売る所とマーダーミステリをプレイすること自体をサービスしている場所もある等、基本の情報を述べられた。
夜には一色たちがそのなりきる登場人物を決め、シナリオを配るとのことだった。
兎乃への申し訳なさと絶えない心配、そしてマーダーミステリという一色にしてみれば新奇性溢れるものを目の当たりにし心の奥底で自分が楽しんでいること、この二つが重なったりぶつかりあったりして彼自身を悩ませた。
気を取り直すようにため息を吐いて、佳芳と京司の話を耳に入れる。
再び彼女に視線を向けると、二人の説明に相槌を打ち可憐な微笑を取り繕っていた。
取り繕って、いればいいと思った。

日が暮れれば山の中の紺青館は更に涼しくなり爽やかな、時に寒いと感じるくらいの風が吹くこともあった。
夕飯の前にシャワーを済ます者と、食後に済ます者で分かれ、一色は前者に割り振られた。
バスルームは1人2人がゆったりと入れる広さで、こちらも勿論申し分なかった。
入浴時の説明で佳芳が
「床はタイルですから、滑りやすいです。気をつけてくださいね!ほら!特に逢さん!」
と逢を名指して言っていた。
窓から見える濃桃色の薔薇が思わず手を伸ばしてしまうくらいの鮮やかさで、美しいものには棘がある云々はよく言ったものなのだろうと思った。
やはり薔薇と言われると女性のイメージがどうしても強い。
美しく、輝かしく、時に優しく撫でられ称賛され時に害虫さえも引きつけてしまうその風貌は正に”美女”なのだろうが、逆に男性として捉えることはできまいか。
いや、人間以外の概念についても例えられるように思う。
金、誘惑、恋愛、妬み、例えばピンヒール。酒、眼鏡、文豪、ネクタイ、音楽、そして犯罪。
この世のあらゆるものは、その魅力と相対して危うさを持ち合わせており、時折人を傷つける。
それがたまたま女性というものに当てはまる所も多く、それに共感する者もたまたま多数存在したが為に棘のある薔薇は背後に女性を強く思わせることになったのではないか、そんな風に考えた。
ただシャワーの熱を頭の真上から感じながらそんなことを思案したとて何かの役に立つわけでも、ましてや彼女——兎乃の傷を癒せる策を思いつくわけでもないが不図そう感じた。
一色の前には東堂が入浴し、後には逢が浴びた。女性陣、加えて京司は食後からグループだそうだ。
佳芳と牧の料理は絶品だった。夕食はライスにパン、シチューにハンバーグ、サラダは2種類と大変豪華で、曜はワインを御所望だった。
一色も白ワインを二杯ほどもらい、ウイスキーにも口をつけた。
先程の兎乃の微笑を思い返して唇を強く噛んだ。スプーンで掬ったシチューに赤が滲む。
食後にはアメリカンコーヒーと牧の手製のチョコレートタルトをいただいて、男性陣は政治や現代社会においての意見を交わし合い、関係が一層深まった。
「政策こそそうですが見直す点と続ける点があると考えます、そこには合意いただけますか?」
と言ったのは東堂だった。
「ええ、勿論。」
「同意見ですね、不変を安寧だと言うのははき違えています」
「仰る通りだ。…貴方たちとは馬が合いますね、話していて気持ちがいい。」
「いいですね。一色先生も、東堂さんももう一杯どうです?」
「いただこうかな。」
「では私も。」
想像すればわかる通り、この場に逢は居らず女性陣にくっついて話しかけに行っていた。
食器洗いがが終わると曜、牧、兎乃、佳芳、京司は風呂チェスや簡単なトランプをした。
逢は意外にも器用でトランプやコインでいくつか手品を披露してみせた。
一番盛り上がっていたのは曜であった。アルコールが回って、テンションが上がっており、逢に引っ付いてばかりだった。



「まずは幼女です。」
京司はテーブル近くの棚の引き出しを開けて、紙袋を取り出した。
これからマーダーミステリの各々のキャラクターを決めるくじがなされる。
「実はこれだけはいつも決まっていましてね。佳芳、彼女に幼女役をやってもらいます。」
はいあげる、と京司は紙袋と重ねてあったメモ用紙を彼女に手渡した。
「幼女は被害者であり、この事件をよく知る者です。真相さえもその小さな脳に収めてしまっているかもしれない。その為、参加者の皆様に任せることはできかねないのです。私、京司は進行役…言うなればこの世界線での神とでも言いましょうかそんな存在です。どうかよろしくお願いしますね。」
微かに不気味な何かがそこに漂った。まとわりつく糸のように解けず彼の周りに絡みついた。
兎乃は怪訝に思いながらも耳を傾ける。
「はい、この紙袋の中に家族と探偵のくじが入ってます。佳芳、お願いできるね?」
「ええ。」
こくんと頷いて彼女は京司から茶色の紙袋を受け取った。
封をしたまま、佳芳は上下にシャカシャカ振って、中身を混ぜた。一同の視線がその手に引きつけられる。
「皆さん一人一役。変更はできないですが、一度きりのマーダーミステリを楽しみましょう。」
佳芳が紙袋の口をぱかっと開けて、端にいる牧に差し出した。
「ありがとうございます。」
牧が小さな紙切れを引くと、佳芳は再び封を閉じて一、二度振ってから次は逢に見せる。
「俺はこれね、おっけ。」
煙草を持つように人差し指と中指で挟んだ。
その次は東堂、曜、一色、最後に兎乃が引いて終わった。
皆掌に白い四方の紙片を乗せて、中を確認した。
「私は母親役です。」
牧はお母さんかあ、と笑顔で少し嬉しそうにする。
「俺は従姉妹役っす。え、オンナノコ?」
「私は長老ですか。威厳があっていいですね。」
「父親だって。幼女の親ってこと?」
「なるほど、青年ですか。」
「私が…探偵?」
兎乃は小首を傾げる。
「おお!このゲームの要ですね、杜若さんよろしくお願いします。」
「え、あ、はい。」
ゲームの進行役は京司。推理の進行役は探偵である、すなわち兎乃に任せられた。
兎乃は緊張したように肩をすくめて、プレッシャーを吐き出すようにため息を吐いた。
「探偵は自分以外みんな犯人かもしれないと思って接さないとだめですよ。簡単に話したり、情報を言ったりしたらいけないですからね?」
「はい、わかりました。」
また一層身構えるように体を固くして、くじの紙切れを見つめた。
マーダーミステリなど他人とのコミュニケーションを必要とする謎解きには経験がなかった為、どう進行してどうやって推理するのか兎乃自身上手く掴めていない。
ので、自分が探偵という役を全うできるかが懸念された。
「犯人役の方はくじにそう書いてあるはずです。絶対に誰にも告げ口せず、周りと同じように推理するふりをしてください。
話し合いのターンは3回。探偵役はターン2回の間に推理を固め、3回目が始まる時にそれを告げます。正解したらそのまま動機を探っていきましょう。
犯人はそれを話さないで聞いていてくださいね。」
そして次に全員に同じA4サイズの文書が配られた、シナリオだという。これにはそれぞれのキャラクターの説明やそのキャラクター目線で物語が書かれていた。
これを各自読み、互いの推理を話し合ったりシナリオに乗っ取った進行をしていくと説明がなされた。
キャラクターひとり一人にそったものを書かなければならないと言うと、かなりの時間を要するのだろうと一色は思案した。
「今回のシナリオは私の妹が書いたものです。これ以外にミステリの物語を書くことをしませんでしたが、中々の名作でして。
犯人探しと呼ばれる典型的なミステリです。論理的な推理で標的を導き出し、制裁を下す。それまでがこのシナリオ、そしてこのゲームの仕組みとなっています。」
京司は一色たちにゆっくりと語りかけ、優しい柔らかな笑みを浮かべて皆を見回す。
「今夜読んでいただいても、明日始まる前に読んでいただいても構いません。よろしくお願いしますね。」
最後の言葉は佳芳が締めた。

気づくと二十三時。今日はこれにて解散となった。
一色は後悔の時から、兎乃と目も合わせれていない。完全に関係が悪くなった、というか一色がそうしてしまった。
瞳をぼんやりと開けて、吸い寄られるように闇色の夜空に向かう。
サマーニットのカーディガンを羽織っていたので寒くはなかったが、ベランダは涼しかった。緑の匂いのする風が吹いて気持ちが良い。
そんな体感とは裏腹に、一色の心は言うまでもなく曇りがかって今にも雨が降り出しそうである。
あんなふうに饒舌になるのは自分の悪いところだった。責めるつもりなどなかった、などと言っても兎乃は信じられないだろう。
一色自身も、果たして本当にそんな気持ちはなかったと言い切れるかわからなかった。自分でも、自分の真意が理解できなかった。
彼は使命感に掻き立てられ、正義感に追い込まれこの探偵という仕事を成し遂げようとしている。年老いたその時、振り向いてみて完遂できたと心の底から思いたい。
しかし年老いても、年齢をいくら重ねてもこの執念めいた使命感や探究心は、舞台袖に戻ろうとはしないのではないか。いつか本当に、終わりがくるのか。
終わらせられるのか。
その自分を突き動かすものに対して、はっきりとはしないが恐怖心さえ抱くのだ。
そんなどこに意味があるのかも検討がつかないことを、いつも、毎日考えて床につく。
「…しかしあれは言い過ぎた。」
煙をふぅーっと吐き出して、憂いを纏った顔で天を仰ぐ。
さすが山中、森の中。銀色に輝きを放つ星たちが数えきれぬ程によく見えた。
落ち込んだら気分転換だとよく言ったものだが、実際のところそう上手くいった試しが一色にはなかった。
自分が嫌になっている時に、光を帯びて煌めくものを見てしまえば自分がもっと醜く欠如だらけの人間だと分かってしまう。
星はそこにあるだけでこんなにも輝いているのに、私は何をしているんだ。と。
言葉の剣を無闇矢鱈に振りかざして、彼女の美しい顔を切り裂いた。
「謝りに行かないと…」
一色は灰皿に軽く煙草を押し付けてベランダのサンダルを脱ぎ、部屋の中に入った。
窓を閉めて振り返ってみると怯えたような表情の自分がガラスに映っている。
短めに息を吐いてカーディガンを羽織り直す。
何と言おう、許してくれるだろうか。不安に感じながら隣の兎乃の部屋を訪ねた。
軽くゆっくりとノックを3回。もう寝てしまっただろうか。
少し待ってみたが物音がしない。はい、今開けますねなどと言う声も聞こえない。
ああ、眠ってしまっているんだと心残りに思いながらもう一度ノックをしてみようかと右手を挙げかけた。
「どなたでしょう。」
すると中から淡々とした声が聞こえた、兎乃である。なんだまだ寝ていなかったのかと安心しながら一色です、と答える。
「申し訳ないです、少しお話がしたくて。」
おずおずと小さく言うと、それに答えるように足音が向かってきて扉が重く開いた。
「どうぞ。」
「すみません、お休みでしたか?」
と言うと彼女は首を微かに横に揺らして見せた。
「いえ、大丈夫です。」
目を合わせず離れて行ってしまう。
一色も一歩踏み込み、扉を閉め切らないで数センチ開けておいた。
彼女を少しでも怖がらせない為の工夫だが、役に立つかはわからなかった。兎乃の顔から意図や感情はまるで読めない。
扉の横に立って気まずそうに手指を組む。初夏で季節的には湿っている方なのに、手の皮膚がカサカサと乾いたように擦れ合って、もう自分も歳なのかなどと感じた。
「先刻は本当に失礼な事を言ってしまったと後悔しています。思い上がっていた。許しは乞いません、ただ謝らせてください。」
しっかりと兎乃を見据え、どうか届くようにと誠意を含んだ声で訴えかけた。
「本当に、申し訳なかったです。」
もうあんな事言わないから、こちらを見てくれ。
腰を折り、深く頭を下げて味のしない唾を飲み込んで言った。何故だか唾液が喉に支えて痛かった。
「…私の方こそ、子供みたいに泣き出してすみませんでした。」
一色は顔を上げる。
彼女は白い手を落ち着きないように撫でながら握って、しょげたように眉は垂れてまつ毛は小刻みに震えさせていた。
ベッドを後ろにして、視線は合わないがしっかりと体を一色に向けていた。
「いえ、そんな何故貴女が謝るんです。そんなこと言わないで」
「でも。」
一色の言葉を力を振り絞るように強く遮って、彼の口を閉ざした。
「でも、胸は痛かった、です。」
その茶色の瞳は輝くものが溢れんばかりに潤んでいた。
ええ、と聞こえないくらいに静かに頷く。
「そうですよね、本当にすみません。あいつ…蝶は私の一つの目的です。蝶のこととなるといつも先走ってしまう。
…ごめんなさい、言い訳でしたね。」
兎乃はベッドに腰掛け、手で椅子を指した。座ってくださいと促しているようだった。
「ありがとう。」
「言い訳じゃないでしょう。理由です。」
椅子に座って、兎乃を真正面にしより近くで彼女の顔を見ることができた。
たまにこちらに目を向けて、ほんのちょっぴり微笑んでいる。
涙は乾いていた。
「本当のことを、お聞かせいただいてもよろしいですか?」
心を交わせるチャンスかもしれない、一色は慎重に彼女の核心に触れた。
「ええ、いいですよ。」
嫌な顔をされることなく了承され、胸を撫で下ろす一色。
「でも、私が泣きそうになったり悲しそうにしたら、今度は慰めてくださいますか。」
気恥ずかしそうに目を伏せて、唇を赤い舌で舐める。風呂から上がり、化粧は落ちているだろうに唇の瑞々しい赤みに今更気づいた。
いや、風呂から上がった後だからこそ、血色が良くなっているのだろう。ほら、頬もじんわりと薄桃色に火照っているように見える。
「勿論です、話したくなくなったら大丈夫ですから。…ゆっくり。」
はい、快くこくんと頷いて口を開いた。