兎乃は自室となった部屋に入って戸をパタンと閉めてその場に座り込んだ。
まるで崩れ落ちるようにバタッと。
心底疲れた。
会社にも行かず、人にも会わず、独り言も言わなかった状態から急にこれだ。それは心労も溜まる。
一度にたくさん初対面の人間と対面して、その館の主人は体調不良。偉そうで派手な女性はいるし、積極的に関わってくる逢の明るささえ息が詰まった。
他人と過ごすのってこんなに肩に力が入るものだったかしら。
のっそり立ち上がって小さなキャリーケースに手を伸ばした。中には数点の衣服と必需品しか詰めていない。
ぐるっとファスナーを開けて中身を確認する。ケースに入れたままでも困りはしないが、せっかくの部屋なのだし広く使わせてもらいたい。
部屋を見渡せば机の上に籠が二つ重ねて置いてあった。多分使っていいんだろう、彼女はまず手持ちのバッグをそこに入れた。
隣には清潔そうなベッドが白いシーツを纏っていた。フリルをあしらった枕が、なんとも乙女らしくて兎乃の少女の部分をくすぐった。
入ってきた扉から向かって右側にベッドが縦に設置されており、その左隣に机と椅子が置いてある。
左側の壁には年季の入った本棚と屋形の雰囲気と似合う化粧台があった為、最初からここは来客用の寝室として作られた部屋なのだと理解する。
「本はやっぱり謎解きのが置いてあるのかな。」
ぼそりと独り言を呟く。
察しの通り、謎解きの問題集や暗号の種類をまとめた本、チェスのルールブックやコナンドイルまで”謎”に関する幅広いジャンルの書籍がずらっと並んでいた。
引き出しの部分には、トランプやマジックで使うようなコイン、チェス盤と駒などが収納されている。
隅々まで埃や塵の一つもないこと。兎乃は少し前の自分の部屋を思い出した。
とてもじゃないと言っては嘘になる。とても、いえそれ以上に荒れていた。
自分が恥ずかしくなる。恐らく佳芳が時間をかけて丁寧に掃除してくれたのだ。
後で礼を伝えねばと思いながら兎乃はベッドに腰掛ける。積極的に話してくれた彼——一色亮紀のことが頭に浮かんだ。
人を妙に安心させる笑顔を持っている。
彼は探偵だと言うが、あの男…兎乃を騙したあの男の事は知っているんだろうか。
知っているんだとしたら、大切な情報源である。
何としても関わりを持ちたいものだ。
ぱたんとベッドに寝そべり、天井を見上げる。木目の妖しい模様を目でなぞりながら、静かな呼吸音を漏らした。
節穴や木目を気味の悪い眼と見間違えたり、幼少期に顔に見えてしまったりという大袈裟に表現すれば現象らしきものは誰しもあったのではないか。
それも床についてからの暗い時間なので妙に寒気を感じずにはいられない。
兎乃も小学校に上がってすぐ父方の祖父母の家に泊まった時、天井の木目と節穴がマルチーズというある種類の犬の顔に似ていてそのマルチーズの模様をてんちゃん、と名付けて寝る前語りかけていた。
天井のマルチーズ。てんちゃん。
恐らく誰も知らないであろう、兎乃だけの思い出。
彼…一色亮紀もそんな時代があったのだろうか。
いやしかし実際にあったとしても、想像がつかない。偏見だが節目を顔があると怖がって、母親に泣きつくような幼少期だったとは到底思えなかった。
それくらい彼からは余裕と寛容さが感じられる。彼は膜で覆われているかのように、この浮世からどこか離れて独りでいるような寂しい不思議さがあった。
だからどうという話でもないのだが、とにかく兎乃にはそれが新鮮だったのだ。
人をこんな風に深く考え、関わろうと思ったのは兎乃を傷つけたあの男に出会い、そして裏切られてからだ。
視界の全てが、起こっていることの全部が前と違うように見える。良くも悪くも。
それは兎乃のこれからの人生に以前にはなかったズレや、共に合致を生むこととなるだろうが、彼女にしてみれば避けようのない事柄だった様にも思う。
あの男に裏切られ甘い恋が散った事も、会社を辞めて独りになってしまった事も。
一見して何と悲しく気の毒なと思う者が大半だと言えるが、部屋を乱雑に荒らしたあの時より自身は可哀想ではないのかもしれないと思い始めてもいた。
最初こそあの男に対する復讐心で動いていたが、彼の様な犯罪者によって傷つき行く末を狂わされる人達を支えたい。そんな風に感じてきていたのだ。
兎乃は息を深く緩やかに吸った。柔らかく優しくそれを吐き、上体を起こす。
確か一色亮紀の部屋は兎乃の隣だ。
先程一色は何か言いかけていたが、あれは何だったのだろうと思い返してみる。
招かれた館だとは言え、異性の部屋を赴くのは少し躊躇われた。
一色の部屋—隣の部屋の前でふぅ、と息と身を整えて準備をする。
いや、自分の部屋から出てくる時も化粧台のクラシックな鏡を前に見た目は綺麗にしていたつもりだが。
その話をしに行く体で彼に確認しようと扉を3回ノックする。
——あの男を、知っていますか。
これでいい。これを訊けば…
「…」
兎乃はぽけっと口を開ける。
さながら状況不明の出来事を目の前にして頭の中がハテナでいっぱいな猫。かもしくは犬。
声も音も聞こえてこない。どうしたものだろう。
電話で気づかないということはない。声もしないのだから誰かと話したり、通話を繋いでるとは思えない。
やけに静かすぎた。何だか寒気がしてくる、背筋がぞわぞわと冷たい指でなぞられた様に震えて気味が悪い。
「あ、あの。一色さん…おられますか…」
細々とした弱っちい声で扉の向こうに呼びかけようとする。どうしたものか、声をかけても無反応であった。
ますます嫌な感じがする。
もしかして推理や仕事に没頭しているのか。用を足しに部屋を出ているのか。もしくは一階に降りてしまったのか。
瞬時に出てくる推測が端から順に消滅していく。
どれだけ集中していても自分の名前は聞こえるはずだ。人間はどれだけうるさく騒がしいパーティ会場でも自身の名前を呼ばれるとすぐに反応してしまうらしい。そういう生き物なのだ。
トイレに行ったのなら、階段を上がったすぐそこにあるのだから時間はかからないだろうし、兎乃の声も聞こえるはずだ。
一階に降りてしまったのなら、階段を降りた足音を兎乃は聞いていない。
そこまで壁が薄いという訳ではないのだが、階段の音くらいは静かにしていれば耳に入る。先程の兎乃はベッドに横になってただただ天井を見上げていただけだ。
もし一色が歩いたり、一階に行ったなら気づくはずだった。
だとするとやはりこの部屋の中に居るのだろう。確かに。
「い、一色さん!!開けますが、いいですか!」
たまらなくなってドアノブに両手をかけて回す。
少し嫌な想像をして、唇をきゅっと噛んで。
もし、彼が息絶えていたら…
「一色さん!!」
「どうわああ!!」
「アアアアア!」
「えええええ!?」
「ちょっとぉ!ウノちゃん!一色さんも!うるさいっす!」
二階に三種の声が響き渡る。
兎乃は振り返ってむっとした顔の逢にごめんなさい、と一礼して一色の方に向き直った。
大丈夫、生きてた。私が馬鹿だったみたい、そんな風に思った。
「すみません、勝手に入ったりして。うるさくして。」
肩を落として、反省の意を示した。一色は即座にいえいえ、と椅子から立ち上がる。
「私の方こそ大きな声を出してしまって申し訳ない、イヤホンをしていたもので全然気づきませんでした。」
なんだそんな事だったのか。兎乃は納得して胸を撫で下ろす。やはり過度な思い込みだったらしい、気をつけなければと心に留めた。
「お仕事中だったのですよね、出直しましょうか。」
彼女が一歩後ずさると一色は首を勢いよく振って
「待って、伺いたいことがあります。先刻言いかけた事です、聞いてくださいますか。」
と止めた。兎乃は頷く。
「私もそのことが気になって来ました。何でしょう…?」
「貴女…」
そう切り出して、再び元座っていた椅子に腰をかけ脚を組み指を艶かしく絡めると、こちらをゆっくり見上げた。
「前職は秘書だったと。恐らくですが探偵社の秘書をお勤めになってたんじゃないですか。」
確信を持った問いかけであった。
恐らく、と前置きしておきながら内心絶対そうだと言う自信と強い意志があるのだと言わずともわかった。
答えを求めているのではない、君にはイエスとはいの二択しかないのですと表情で伝えてくる。兎乃は別に犯罪者でも何でもないのに探偵によって事実を暴かれてしまい、顔の表面が硬くなった。
肩の筋肉が張り、背筋が強ばった。肩の先から肘にかけての二の腕が琴線の様にピンとつっぱった。首元を冷たい白い手で絞められたようにぞわぞわと寒気を感じる。
「え、ええ。お察しの通りですが、何か。」
できるだけ平静を装ったところで彼には無意味、理解していた。が、そうせざるを得ないのは、隠して自分から言えないのは人間の性と言うものなのか。
気づけば指先が氷柱のようにひやりとしていて、爪が手の甲にぶつかると痛かった。
「そこで男に会いませんでしたか?」
何ですって、男?
あの、男?卑しいずるい、醜いが悔しいほど美しいひどく冷淡なあの男?
「知っていますね、あれは蝶です。」
「…蝶?」
「彼自身が自ら名乗っている名前です、恐らくニックネームの類でしょうが本名と言う線も拭えない。」
頭が真っ白だ。何故彼があの男の事を認知している。それも自分以上の情報量を。
あの男の一番側にいたのは兎乃だった。だって嘘でもあの男…”蝶”の女だったのだから。
あの男の笑顔も、優しさも全て偽りで虚構に還るものだったとしても兎乃は確かにそれを一番近くで感じ、触れていた。
どれだけ騙されたとしても裏切られても、嵌められたとしてもあの男と過ごした時間は捨てられなかった。
例えば、あの男が目の前に立っていたとして、兎乃はどうするだろう。復讐の名を借りて、裏切り者に制裁を食らってもらいたいだろう、それは彼女も同じだ。
しかしその無防備に晒された首元を掻っ切る事も、赤く色づいたその薄めの唇に毒物を入れ込むことも到底できっこないのだ。
まだ、兎乃はあいつに惚れたままなのだから。
それから一色は何かその、”蝶”に関しての事か長々と喋っていたが、兎乃の耳には入ってこなかった。
「ご存知ですね、それもそうだ。貴女は蝶の恋人だったのだから。」
——私は、あの人の…そう私はあの人を愛して…
細い手指が病的なほど白く、小枝のように骨張っていた。
桜色に色づいた爪は硬く鋭い。手が小刻みに震える。
「彼は大量の金を横領し、膨大なデータを盗んでいきました。一般市民にも危害が降りかかりかねないんです。」
口の中が変にねばねばと唾液が粘って気持ち悪かった。どう言葉を並べても形容しきれないこの恐怖と苦しみが、兎乃の首を絞め、傷口を抉った。
「貴女はその大切なデータや大金の管理を任される事も度々あった。秘書ですからね、随分信用を置かれていたのではないですか。」
そこで一色は語気を強めた。
「いえ、置かれていたはずです。貴女は優秀だったでしょうから。」
褒めないでくれ。
責めないでくれ。
針千本を飲み込んでいるような顔で口元をきゅっと閉める。眉間の辺りで目線がくらくらした、瞳の水溜りが兎乃の視界の邪魔をした。霞んで何も見えない。
「加担したのではないですか?愛する彼の為に、情報を、大事な鍵を、渡して」
「違います!」
叫ぶように言って、違うんですと次は控えめに呟いた。
絨毯の敷かれた床を見つめた。兎乃は前から責められると下の床や棚の足しか見えない。というか見れない。
視界と感覚が上への意識を拒んで、自分を束縛するのだ。
黒い闇の手が、彼女を誘惑して引きこもうとして離さないのだ。
「みんなそう言います、お前なんじゃないかって、私はただ…」
私だって被害者だ、その言葉を飲み込んでいえと首を振る。
「なんでもありません、私の話はいいです。もう、帰っても、いいですか。」
声のトーンを落として、深く傷ついたんだと言ったように伝える。実際にそうであった。
服の裾をぐっと掴んで、なぜもっと可愛いピアスをつけてくればよかったなんて、この一色に対して思ったのだろうと後悔した。
やはり自分を見てくれる、仲間にしてくれる、キーパーソンにしてくれる人なんていないのだ。
もう嫌だった。喚いて叫んで暴言を吐いて、母の元に帰りたかった。お母さん、私を慰めて。
「待って、ください。」
「なんです!」
止める一色に兎乃は吠える。
泣き散らして、抗議した。自分は違う、やってない。貴方が探偵ならもっと調べればいい、私は悪くない。
私はあの男のことなんて愛してなかった、今も悲しくて怖くて寝れない闇夜がある。独りで、涙を流して心を痛めたんだと。
私のことを知って、わかった気でいるなら責めないで。優しくして、癒して、愛して、抱き締めて。
好きだと言って。
などと言える訳でもなく。
「一色さん、貴方は私じゃないでしょう!?」
泣き顔が見られてもいいと開き直り、ぐっと距離を詰めた。
「私の悲しみは私しか知らないんです、貴方は神じゃない。」
この一瞬で、一言で気まずく重い空気が流れた。耐えきれなくなり兎乃は黙って一色の部屋を出、自分の部屋へと戻る。
扉を開けると広いベッド、白い枕、節目の天井。まるで気色の悪い眼が視線で兎乃を嘲笑して、蔑んでいるようだった。
彼女はその場にしゃがみ込む。
自分の過去の悲しみに浸っていたのでも、自己嫌悪に陥ったのでもない。あの男を、蝶と言う者やらを愛おしいと感じ、思い出したのでもない。
ただただ、一色に自分が嫌われるんだろう。
そのことだけを予測して、思って、泣いていた。
まるで崩れ落ちるようにバタッと。
心底疲れた。
会社にも行かず、人にも会わず、独り言も言わなかった状態から急にこれだ。それは心労も溜まる。
一度にたくさん初対面の人間と対面して、その館の主人は体調不良。偉そうで派手な女性はいるし、積極的に関わってくる逢の明るささえ息が詰まった。
他人と過ごすのってこんなに肩に力が入るものだったかしら。
のっそり立ち上がって小さなキャリーケースに手を伸ばした。中には数点の衣服と必需品しか詰めていない。
ぐるっとファスナーを開けて中身を確認する。ケースに入れたままでも困りはしないが、せっかくの部屋なのだし広く使わせてもらいたい。
部屋を見渡せば机の上に籠が二つ重ねて置いてあった。多分使っていいんだろう、彼女はまず手持ちのバッグをそこに入れた。
隣には清潔そうなベッドが白いシーツを纏っていた。フリルをあしらった枕が、なんとも乙女らしくて兎乃の少女の部分をくすぐった。
入ってきた扉から向かって右側にベッドが縦に設置されており、その左隣に机と椅子が置いてある。
左側の壁には年季の入った本棚と屋形の雰囲気と似合う化粧台があった為、最初からここは来客用の寝室として作られた部屋なのだと理解する。
「本はやっぱり謎解きのが置いてあるのかな。」
ぼそりと独り言を呟く。
察しの通り、謎解きの問題集や暗号の種類をまとめた本、チェスのルールブックやコナンドイルまで”謎”に関する幅広いジャンルの書籍がずらっと並んでいた。
引き出しの部分には、トランプやマジックで使うようなコイン、チェス盤と駒などが収納されている。
隅々まで埃や塵の一つもないこと。兎乃は少し前の自分の部屋を思い出した。
とてもじゃないと言っては嘘になる。とても、いえそれ以上に荒れていた。
自分が恥ずかしくなる。恐らく佳芳が時間をかけて丁寧に掃除してくれたのだ。
後で礼を伝えねばと思いながら兎乃はベッドに腰掛ける。積極的に話してくれた彼——一色亮紀のことが頭に浮かんだ。
人を妙に安心させる笑顔を持っている。
彼は探偵だと言うが、あの男…兎乃を騙したあの男の事は知っているんだろうか。
知っているんだとしたら、大切な情報源である。
何としても関わりを持ちたいものだ。
ぱたんとベッドに寝そべり、天井を見上げる。木目の妖しい模様を目でなぞりながら、静かな呼吸音を漏らした。
節穴や木目を気味の悪い眼と見間違えたり、幼少期に顔に見えてしまったりという大袈裟に表現すれば現象らしきものは誰しもあったのではないか。
それも床についてからの暗い時間なので妙に寒気を感じずにはいられない。
兎乃も小学校に上がってすぐ父方の祖父母の家に泊まった時、天井の木目と節穴がマルチーズというある種類の犬の顔に似ていてそのマルチーズの模様をてんちゃん、と名付けて寝る前語りかけていた。
天井のマルチーズ。てんちゃん。
恐らく誰も知らないであろう、兎乃だけの思い出。
彼…一色亮紀もそんな時代があったのだろうか。
いやしかし実際にあったとしても、想像がつかない。偏見だが節目を顔があると怖がって、母親に泣きつくような幼少期だったとは到底思えなかった。
それくらい彼からは余裕と寛容さが感じられる。彼は膜で覆われているかのように、この浮世からどこか離れて独りでいるような寂しい不思議さがあった。
だからどうという話でもないのだが、とにかく兎乃にはそれが新鮮だったのだ。
人をこんな風に深く考え、関わろうと思ったのは兎乃を傷つけたあの男に出会い、そして裏切られてからだ。
視界の全てが、起こっていることの全部が前と違うように見える。良くも悪くも。
それは兎乃のこれからの人生に以前にはなかったズレや、共に合致を生むこととなるだろうが、彼女にしてみれば避けようのない事柄だった様にも思う。
あの男に裏切られ甘い恋が散った事も、会社を辞めて独りになってしまった事も。
一見して何と悲しく気の毒なと思う者が大半だと言えるが、部屋を乱雑に荒らしたあの時より自身は可哀想ではないのかもしれないと思い始めてもいた。
最初こそあの男に対する復讐心で動いていたが、彼の様な犯罪者によって傷つき行く末を狂わされる人達を支えたい。そんな風に感じてきていたのだ。
兎乃は息を深く緩やかに吸った。柔らかく優しくそれを吐き、上体を起こす。
確か一色亮紀の部屋は兎乃の隣だ。
先程一色は何か言いかけていたが、あれは何だったのだろうと思い返してみる。
招かれた館だとは言え、異性の部屋を赴くのは少し躊躇われた。
一色の部屋—隣の部屋の前でふぅ、と息と身を整えて準備をする。
いや、自分の部屋から出てくる時も化粧台のクラシックな鏡を前に見た目は綺麗にしていたつもりだが。
その話をしに行く体で彼に確認しようと扉を3回ノックする。
——あの男を、知っていますか。
これでいい。これを訊けば…
「…」
兎乃はぽけっと口を開ける。
さながら状況不明の出来事を目の前にして頭の中がハテナでいっぱいな猫。かもしくは犬。
声も音も聞こえてこない。どうしたものだろう。
電話で気づかないということはない。声もしないのだから誰かと話したり、通話を繋いでるとは思えない。
やけに静かすぎた。何だか寒気がしてくる、背筋がぞわぞわと冷たい指でなぞられた様に震えて気味が悪い。
「あ、あの。一色さん…おられますか…」
細々とした弱っちい声で扉の向こうに呼びかけようとする。どうしたものか、声をかけても無反応であった。
ますます嫌な感じがする。
もしかして推理や仕事に没頭しているのか。用を足しに部屋を出ているのか。もしくは一階に降りてしまったのか。
瞬時に出てくる推測が端から順に消滅していく。
どれだけ集中していても自分の名前は聞こえるはずだ。人間はどれだけうるさく騒がしいパーティ会場でも自身の名前を呼ばれるとすぐに反応してしまうらしい。そういう生き物なのだ。
トイレに行ったのなら、階段を上がったすぐそこにあるのだから時間はかからないだろうし、兎乃の声も聞こえるはずだ。
一階に降りてしまったのなら、階段を降りた足音を兎乃は聞いていない。
そこまで壁が薄いという訳ではないのだが、階段の音くらいは静かにしていれば耳に入る。先程の兎乃はベッドに横になってただただ天井を見上げていただけだ。
もし一色が歩いたり、一階に行ったなら気づくはずだった。
だとするとやはりこの部屋の中に居るのだろう。確かに。
「い、一色さん!!開けますが、いいですか!」
たまらなくなってドアノブに両手をかけて回す。
少し嫌な想像をして、唇をきゅっと噛んで。
もし、彼が息絶えていたら…
「一色さん!!」
「どうわああ!!」
「アアアアア!」
「えええええ!?」
「ちょっとぉ!ウノちゃん!一色さんも!うるさいっす!」
二階に三種の声が響き渡る。
兎乃は振り返ってむっとした顔の逢にごめんなさい、と一礼して一色の方に向き直った。
大丈夫、生きてた。私が馬鹿だったみたい、そんな風に思った。
「すみません、勝手に入ったりして。うるさくして。」
肩を落として、反省の意を示した。一色は即座にいえいえ、と椅子から立ち上がる。
「私の方こそ大きな声を出してしまって申し訳ない、イヤホンをしていたもので全然気づきませんでした。」
なんだそんな事だったのか。兎乃は納得して胸を撫で下ろす。やはり過度な思い込みだったらしい、気をつけなければと心に留めた。
「お仕事中だったのですよね、出直しましょうか。」
彼女が一歩後ずさると一色は首を勢いよく振って
「待って、伺いたいことがあります。先刻言いかけた事です、聞いてくださいますか。」
と止めた。兎乃は頷く。
「私もそのことが気になって来ました。何でしょう…?」
「貴女…」
そう切り出して、再び元座っていた椅子に腰をかけ脚を組み指を艶かしく絡めると、こちらをゆっくり見上げた。
「前職は秘書だったと。恐らくですが探偵社の秘書をお勤めになってたんじゃないですか。」
確信を持った問いかけであった。
恐らく、と前置きしておきながら内心絶対そうだと言う自信と強い意志があるのだと言わずともわかった。
答えを求めているのではない、君にはイエスとはいの二択しかないのですと表情で伝えてくる。兎乃は別に犯罪者でも何でもないのに探偵によって事実を暴かれてしまい、顔の表面が硬くなった。
肩の筋肉が張り、背筋が強ばった。肩の先から肘にかけての二の腕が琴線の様にピンとつっぱった。首元を冷たい白い手で絞められたようにぞわぞわと寒気を感じる。
「え、ええ。お察しの通りですが、何か。」
できるだけ平静を装ったところで彼には無意味、理解していた。が、そうせざるを得ないのは、隠して自分から言えないのは人間の性と言うものなのか。
気づけば指先が氷柱のようにひやりとしていて、爪が手の甲にぶつかると痛かった。
「そこで男に会いませんでしたか?」
何ですって、男?
あの、男?卑しいずるい、醜いが悔しいほど美しいひどく冷淡なあの男?
「知っていますね、あれは蝶です。」
「…蝶?」
「彼自身が自ら名乗っている名前です、恐らくニックネームの類でしょうが本名と言う線も拭えない。」
頭が真っ白だ。何故彼があの男の事を認知している。それも自分以上の情報量を。
あの男の一番側にいたのは兎乃だった。だって嘘でもあの男…”蝶”の女だったのだから。
あの男の笑顔も、優しさも全て偽りで虚構に還るものだったとしても兎乃は確かにそれを一番近くで感じ、触れていた。
どれだけ騙されたとしても裏切られても、嵌められたとしてもあの男と過ごした時間は捨てられなかった。
例えば、あの男が目の前に立っていたとして、兎乃はどうするだろう。復讐の名を借りて、裏切り者に制裁を食らってもらいたいだろう、それは彼女も同じだ。
しかしその無防備に晒された首元を掻っ切る事も、赤く色づいたその薄めの唇に毒物を入れ込むことも到底できっこないのだ。
まだ、兎乃はあいつに惚れたままなのだから。
それから一色は何かその、”蝶”に関しての事か長々と喋っていたが、兎乃の耳には入ってこなかった。
「ご存知ですね、それもそうだ。貴女は蝶の恋人だったのだから。」
——私は、あの人の…そう私はあの人を愛して…
細い手指が病的なほど白く、小枝のように骨張っていた。
桜色に色づいた爪は硬く鋭い。手が小刻みに震える。
「彼は大量の金を横領し、膨大なデータを盗んでいきました。一般市民にも危害が降りかかりかねないんです。」
口の中が変にねばねばと唾液が粘って気持ち悪かった。どう言葉を並べても形容しきれないこの恐怖と苦しみが、兎乃の首を絞め、傷口を抉った。
「貴女はその大切なデータや大金の管理を任される事も度々あった。秘書ですからね、随分信用を置かれていたのではないですか。」
そこで一色は語気を強めた。
「いえ、置かれていたはずです。貴女は優秀だったでしょうから。」
褒めないでくれ。
責めないでくれ。
針千本を飲み込んでいるような顔で口元をきゅっと閉める。眉間の辺りで目線がくらくらした、瞳の水溜りが兎乃の視界の邪魔をした。霞んで何も見えない。
「加担したのではないですか?愛する彼の為に、情報を、大事な鍵を、渡して」
「違います!」
叫ぶように言って、違うんですと次は控えめに呟いた。
絨毯の敷かれた床を見つめた。兎乃は前から責められると下の床や棚の足しか見えない。というか見れない。
視界と感覚が上への意識を拒んで、自分を束縛するのだ。
黒い闇の手が、彼女を誘惑して引きこもうとして離さないのだ。
「みんなそう言います、お前なんじゃないかって、私はただ…」
私だって被害者だ、その言葉を飲み込んでいえと首を振る。
「なんでもありません、私の話はいいです。もう、帰っても、いいですか。」
声のトーンを落として、深く傷ついたんだと言ったように伝える。実際にそうであった。
服の裾をぐっと掴んで、なぜもっと可愛いピアスをつけてくればよかったなんて、この一色に対して思ったのだろうと後悔した。
やはり自分を見てくれる、仲間にしてくれる、キーパーソンにしてくれる人なんていないのだ。
もう嫌だった。喚いて叫んで暴言を吐いて、母の元に帰りたかった。お母さん、私を慰めて。
「待って、ください。」
「なんです!」
止める一色に兎乃は吠える。
泣き散らして、抗議した。自分は違う、やってない。貴方が探偵ならもっと調べればいい、私は悪くない。
私はあの男のことなんて愛してなかった、今も悲しくて怖くて寝れない闇夜がある。独りで、涙を流して心を痛めたんだと。
私のことを知って、わかった気でいるなら責めないで。優しくして、癒して、愛して、抱き締めて。
好きだと言って。
などと言える訳でもなく。
「一色さん、貴方は私じゃないでしょう!?」
泣き顔が見られてもいいと開き直り、ぐっと距離を詰めた。
「私の悲しみは私しか知らないんです、貴方は神じゃない。」
この一瞬で、一言で気まずく重い空気が流れた。耐えきれなくなり兎乃は黙って一色の部屋を出、自分の部屋へと戻る。
扉を開けると広いベッド、白い枕、節目の天井。まるで気色の悪い眼が視線で兎乃を嘲笑して、蔑んでいるようだった。
彼女はその場にしゃがみ込む。
自分の過去の悲しみに浸っていたのでも、自己嫌悪に陥ったのでもない。あの男を、蝶と言う者やらを愛おしいと感じ、思い出したのでもない。
ただただ、一色に自分が嫌われるんだろう。
そのことだけを予測して、思って、泣いていた。