「大丈夫ですか…?どこか悪いんでしょうか…」
「ええ、大丈夫、です。」
佳芳は兎乃を手で遮って止めた。
「大丈夫だから、そんな、心配しないで。」
兎乃は何も言えなくなり、小さく頷くしかできなかった。
館のロビーに入り、そこのソファに京司を寝かせたが、呼吸が荒いままでとても大丈夫なようには見受けられなかった。
佳芳の寄せ付けない感じが少し気まずい空気を作っている。急に態度をころりと変えられ、皆がどうしたらいいかわからなくなっていた。
「…私たちは、荷物を部屋に運べばいいですかね。」
東堂が彼女の反応を伺う。
逢は床に座り込んでだんまりになってしまった。
一色は眉を顰めて、何かを考えているようだ。視線があっちこっちに移動しているので、何かを観察しながら察知しようと努めているのかもしれない。
兎乃はそこに立ち尽くしたまま、バッグの持ち手をきゅっと強めに握った。
「ええ。そうしてください。2階の空いてる部屋をご自由に。」
兎乃は子供だったときのことを思い出した。両親のことだった。
兎乃やその他のものは希望の部屋や場所を話し合い、スムーズにそれぞれの部屋を決めて荷物を持って行った。
恐らく皆が少し落ち込んで、大袈裟に言えば憂鬱な気分であったと思う。
彼女はため息を放って、ベットの角に座った。
キャリーケースの持ち手をぼーっと眺める。
兎乃の両親のこと。
母親は体が弱かった。兎乃は彼女がよく倒れこんで熱を出していたことを記憶している。
その時、一番に駆けつけるのは父親だ。母を抱いてベッドへと運び、様子を見てあげていた。
それを兎乃は1人、眺めている。
お母さん大丈夫、何かする?と訊いても兎乃は大人しくしてなさい、大丈夫だからと言われるだけだった。
そんな時の子供への対応は当然のものなのだろうが、兎乃には何故だか強く印象に残っていた。
初めて、この2人は恋人だったんだと思い知った。
母に一番近いのは父なのだ。
自分は、違う。
自分は、2人より遠い。
似た状況になると、すぐ思い出され、少しだけほんの少しだけ心がちくと痛む。
先程の佳芳と京司がそうだった。
兎乃とはやはり、遠い存在。
あの2人にとって、兎乃は大切な人物にはなれないのだ、と考えた。なったとしても、何も変わらないだろうに。
決して、2人にとってのキーパーソンに成り上がりたいとか、2人の関係に介入したい訳ではないがやはり役に立ちたかった。
兎乃には人に尽くしがちな面があるのだろう。
少し経てば瞼が重くなっていた。
肩の力を抜くと、一色の顔が走馬灯のようにぼんやりと浮かぶ。
微笑んで、まあ楽しそうだ。
おかしい、走馬灯なんて見たこともないのに。

「杜若さん」
「は、はい!!」
兎乃は勢いよく起き上がる。
走馬灯だなんて言って、うとうと眠気をまとっていた。今すぐにでもぐっすり寝れてしまいそう。
そんな彼女を起こしたのは一色の声だった。扉の向こうから聞こえてくる。
「すみません、少しよろしいですか。」
なんだろう、兎乃は想像もつかずはいと答えて戸を開けた。
「お寛ぎでしたか?すみませんね。」
一色は重ねて詫びた。
「いえいえ、大丈夫です。」
兎乃は横にぶんぶん首を振った。
「なんでしょう…?」
「いやね、京司さんの様子も気になりますし、他の方とも交流の必要があるかと思って一階に戻るのはどうかと…
どなたも出て行かないのでよければ一緒に。」
彼は少し控えめに言って兎乃を誘った。
右手に紙袋を持っている、手土産だろうか。
兎乃はもちろん、と頷いてスマホをポケットに入れて一色と歩み出した。
階段をペタペタ、スリッパの音を鳴らして降りていく。
1人はだめだ。悲観的になる。
兎乃はこの滞在の期間、せっかく人が居るのだから誰かしらと一緒に過ごそうと決めた。
先を歩く一色の背中は広く、逞しかった。
この人と話してみるのもいいかもしれない、そんなことを考えながらリビングルームに足を踏み入れた。
そこにはソファに小柄な女性が、堂々と立って居る金髪の女性。この2人が居た。
「なんでワインの一つもないのよ、こっちは休暇で来てるのに。信じらんない。」
苛立った口調で金髪の女性がキリキリ言った。
見渡すと至る所の棚や収納箱などの戸や蓋が開いている。兎乃にはこの行動が信じられなかった。
別荘とはいえ、人の家にずかずか入り込み図々しくも荒らして酒を探すなんて。
よっぽど疲れが溜まっているのか知らないが、彼女とは関わりたくない。兎乃は視線をもう1人の女性の方に逸らした。
「あ、こ、こんにちは…今来られた方たちですか?」
「こんにちは。ええそうです。お邪魔しても良いでしょうか?」
兎乃は一歩前に出、軽く微笑みながら答えた。
彼女は緊張の糸が切れたように綻ぶように笑ってくれた、ソファに歩み寄って向かいに座る。
「お名前、訊いてもよろしいですか?」
「はい!三宅牧といいます、25です。あなたは?」
艶やかな黒髪を編んで一つにまとめ、水色のパーカーを羽織っていた。
素朴ながらも素材の良さが醸し出ている装いである。兎乃は気に入った。
「素敵なお名前ですね。私は杜若兎乃といいます、まだ24歳ですけど9月で同い年です。」
そう言うと、牧はぱあっと顔を明るくして嬉しそうに
「わ〜!同い年かぁ!じゃあタメで話そう、私兎乃ちゃんと仲良くなりたい!」
と前のめりになった。
「うん、よろしくね。牧…ちゃんでいいかな。」
「もちろん!」
牧はよく話した。口を開けば、言葉が水のように自由に流れてくる。
なんでここに来たのか、どこから来たのか、謎解きはどれくらいの期間やってるか、家にはハムスターがいて実はもう1匹お迎えしたいんだとか、仕事はハンドメイド作家をしていて今日の髪飾りも自作なんだとか、
ここに拘った次はあれを作りたい、そうだ兎乃ちゃんにも作ってあげたいな、髪色に似合うブルーとシルバーのピアスがいいかな、それとも葡萄色のバレッタが綺麗かな、それともバッグに付けれるチャームやブローチがいい?でもね私兎乃ちゃんの体に身につけてほしいの、そしたらずっと一緒よ、ねえねえそれでうさぎは好き?兎が入る名前なんてそうないよ、兎乃ちゃんうさぎちゃんでも飼ったらどう?
牧はぐっと寄って、きらきらした瞳で兎乃を見つめた。
「うん、やりがいのあるお仕事をされてるなんて素敵ね。作ってくれるのなら私も身につけられる物がいいな。うさぎは好きだよ、でも一人暮らしだから飼うのは少し大変かな。」
兎乃はテンポよく話す様を眺めて聴き、できる限りの答えを返した。
そうすると牧は笑顔をふっと曇らせて
「あ、あ、ありがとう、ごめん。話しすぎだよね…」
よく言われるんだ、と肩を落としてしょげるように静かになった。
先程言葉が水のようだと表現したが、それは小川の水である。
波のような連続性やリズム感もなければ、雲から落ちる雫のような切なさもない。
増えたり減ったり、速くなったり遅くなったり、小川なりの大きな変化を見せている。
兎乃は飽きなかった、そして嫌いではなかった。
ますます気に入った。
「そんなことないよ、初対面なのにこんなに話してくれるなんて嬉しい。ありがとう。」
そう兎乃が言うとまたぱあっと顔の周りに花を咲かせて、再び口を開くのだった。
兎乃は牧を可愛く思って仕方がなかった。
あまり友達を作らなかった彼女だが、この子とは、そんな暖かい感覚したのだ。