月日が経ち、あの不思議な春の夜の出逢いと別れから、一ヶ月以上が過ぎた。季節は皐月を迎えたが、今日は五月晴れを通り越した、初夏並みの気温だ。
楓の耳にそろそろ聞こえてくるのは、大抵が薔薇や菖蒲だが、去年の薔薇の声が、まるで火炙りにされている乙女の悲鳴のようで、自分まで気が滅入ってしまった事を思い出す。今年もそんな感じかな……と、今から憂鬱になっている。
サクヤの声は聞こえなくなってしまったが、祠に通う習慣は変わらないでいた。頻度は減ったが、気持ちが辛くなった時に訪れ、話しかけるように、一人呟いていた。
返事はなくとも、こんな時、彼ならどんな風に答えるだろうか……と考えながら、独り言のように口にすると、次第に気持ちが落ち着き、慰められていく。
そして何より、帰る時……彼女を見送るように、空から細かい霧雨が降り注ぐ瞬間が、たまらなく嬉しかった。すぐ近くに彼がいる事を、確かに感じられるからだ。
そんな、とある休日の暮れ時。学校の同じグループの子と、人気だというカフェに行った帰りだった楓は、あの祠に向かっていた。最近は友達との交流も意識し、少しだけでも自分のことを話すようにしている。だが、やはり緊張したからか気疲れしてしまい、サクヤに会いに行く事にしたのだ。
――そう言や、雨やない日って、どうしてはるんやろ……
今日もだったが、最近は暑いぐらいの晴れが続いている。そんな時は何をしているのか聞いていなかった事に、ふと寂しさを感じた。
おしゃれな流行りのカフェに行くのならと、張り切って履いて来た慣れないサンダルが、疲れた足にダメージを与え出していたが、気にならない。
頭上からそよいで来る涼しい風が、少し汗ばんだ身体に心地よかった。石段の最後の段を上がり、夕闇に染まりかけた目印のソメイヨシノに向かう。
今はすっかり新緑にあふれた大木に、あの薄紅の可憐な花の面影は無い。四月上旬にやって来た長雨で、元々、葉桜に変わった彼らは完全に散りゆき、薄紅の花弁が地面の土にまみれ、痛々しかった。
そんな光景を思い出し、少し切なくなった楓は、振り切るように社のある方に顔を向ける。――息が、止まった。
祠の近くに人影が見える。艶やかな黒髪の――青年。宵に溶け込み、全身に藍がかかっているように見える出で立ちは、ごく普通のシャツにロング丈パンツ、というラフな服装だったが、無性に惹き付けられた。
それより、何よりも楓を揺さぶったのは、彼が纏う空気だ。ぴん、と張り詰め、背が引き締まるように凛とした、覚えのある……
忘れてない。忘れる訳がない。ひどく懐かしくて、切ないぐらいに安心する、誰よりも大好きな……
「あ、の…… こんばんは……」
考えるより先に、口にしていた。いつもの人見知りの自分なら、あり得ない行動だ。
遠慮がちな楓の挨拶に、その青年はゆっくりと振り向いた。色白で涼やかな目をした……知らない顔。だが……
「こんばんは。参拝ありがとうございます。最近、この町の管理部に就職しました。まだ新人ですが……」
ずっと、ずっと、忘れられなかった。もう一度だけでも聞きたかった。深夜のように静かだが、どこか優しさを含んだ、あの淡々とした響きの、声……
「あの…… 前に、会うた事……ありますよ、ね……?」
期待と確信が入り交じり、歓喜で上ずった声で問いかける。全身がふるふる、と微かに震えているのがわかった。膝に力が入らない。
そんな楓を柔らかな眼差しで見ていた彼は、少し照れ臭そうに微笑を浮かべた。ぎこちない仕草で、ゆるり、と右手を差し伸べ、結ばれた口を開く。
「――咲夜だ。また、これからよろしく……楓」
確かな彼の声で紡がれた言葉が、はっきりと鮮明に見えた。渇いた喉が、熱く詰まった言葉を押し出し、応える。
「こちらこそ…… 今度、水辺に行きましょうか……? 菖蒲も咲いてるとこ、ありますよ…… サクヤさん……」
差し出された大きな手を、躊躇いなく握り返し、握手する。すべやかで生温かい、人間の皮膚の感触。だが、あの雨の夜のように、彼の掌は少し湿り気を帯び、ひんやりとしていた。
目頭が熱くなり、いつかの夜と同じく、楓の両の瞳が揺らいだ。いくつもの水滴が溢れ、頬に伝う。何故、ここにこうして在るのか。そんな事は、今はどうでも良かった。
そんな彼女に少し戸惑い、咲夜はもう片方の手で、その滴を拭い取る。
「……水、というのは、こんな温いものなのか?」
ふは、と思わず笑みがこぼれ、泣き笑いみたいな顔になった楓は、握手した方の手に力を込める。ふっ、ふっ、と拙く燻るような笑いが止まらない。
少し困った表情で、そんな事を言う彼が可笑しくて、いとおしかった。水の感触や温度の事なんて、おそらく、もうとっくに知っているだろうに……
そんな様子を見て、ほっ、と安堵した後、咲夜はそのままその手で、そっ、と彼女の頭を包み抱いた。気恥ずかしそうに顔を反らし、自分の胸元に涙顔の楓を押し付ける。
シャツに彼女の涙が染みた瞬間、二つの心臓が早鐘のように鳴り出した。身体の温度が急に上がり、汗ばんで、熱い――
「……人間というのは、色々騒がしいな」
「……です、ね」
知っていくのだ。この人と、一緒に、こんな風に、少しずつ。自分を、人間を、この世という、摩訶不思議なもの達を。
これが、花と雨が導いた、不思議な物語。これからは、彼と彼女――二人の冒険譚になってゆく。
【完】