(綺麗……)


 七瀬ちゃんは相変わらず綺麗な笑みを浮かべていて、躊躇いや不安を抱く私を叱りつけるような目とは縁遠い。


「桜の木を下から見上げると……」

「あ……」


 枝や咲き誇る花の隙間から、オレンジ色に染まりゆく空が見える。

 太陽と一緒になって輝きを放っていた青い空が、ゆっくりと橙色の空に溶けていく瞬間。

 今までの人生で気にしたことのない空の色が、今日だけは純粋に心惹かれた。


「凄く……綺麗です……」

「両想いだね」

「え!?」


 誰も私たちのことを気にしていなかったのに、特別大きな声を出してしまった私は周囲の視線をいっぱい浴びる。

 けれど、それらの視線は痛くもなんともない。

 穏やかな笑みで私たちを見たかと思うと、みんなの視線はどこか別の場所へと向かっていく。


「ふふっ、可愛い」


 七瀬ちゃんの笑い声が溢れてくる。

 笑顔の七瀬ちゃんを見て、自分の心が落ち着くのを感じる。

 でも、心は落ち着き始めているのに、心臓の動きは速まっているような気がする。


「ごめんね、笑って」


 七瀬ちゃんの手が、私の頭を優しく撫でる。

 七瀬ちゃんに触れられたところがくすぐったくて、身を捩らせて反応を示す。


「綺麗だと感じた瞬間が同じだったことが嬉しくて」

「それで、両想い……?」


 七瀬ちゃんと、見つめ合う。

 こんなにも近い距離で見つめ合ったことがなくて、恥ずかしいという気持ちが私に闘争を促そうとする。

 けれど、私の瞳に七瀬ちゃんが映って、七瀬ちゃんの瞳に私が映って、視界いっぱいに広がるすべてが美しすぎて離れられない。


「うん、鹿野さんと私は両想い」


 鹿野さんと呼ばれた瞬間、七瀬ちゃんは私に触れることをやめた。

 あ、もうすぐ2人きりの時間が終わってしまう。

 そんな予感が、私の心を励ます。


「……ろ」


 七瀬ちゃんを引き留めるための言葉を、私は知らない。

 どうやったら、七瀬ちゃんと一緒にいられるのか分からない。 

 七瀬ちゃんから逃げ回っていた私は、とうの昔に呆れられたはずなのに。


「鹿野さん……?」

「真白……」


 それでも、頑張ってみたいと思ってしまう。

 私も、綺麗なものに触れたい。

 綺麗なものに、触れていたい。


「真白……名前が、いいです……」


 綺麗に恋をしていたから、こんなにも苦しくなると知った。

 私の綺麗は片想いだと分かっていたから、逃げることで自分を守った。守ったつもりだった。


「……いいの?」


 でも、私が逃げることで、傷つけるものがある。

 
「私、真白ちゃんのこと、呼んでもいいの……?」


 初めて視線が重なり合うことで、七瀬ちゃんが泣いていたことに初めて気づいた。

 顔を上げることで、七瀬ちゃんを苦しめていたことに気がついた。


「ごめんね……七瀬ちゃん……」


 ずっと、謝りたかった。


「ごめんね……ごめんね……」


 本当はずっと、七瀬ちゃんと一緒にいたかった。


「七瀬ちゃん、ごめんなさい……」


 本当はずっと、七瀬ちゃんの隣にいるのは私がいいと思っていた。


「真白ちゃん」


 七瀬ちゃんの手が、私の頬に触れる。


「ごめんなさ……」

「泣かないで、真白ちゃん」

「七瀬ちゃんも、泣かないで……?」


 去年の七瀬ちゃんは、独りで桜を見上げていたのかなって寂しくなった。

 七瀬ちゃんの隣にいたかった。

 去年も、一昨年も、もっと昔から、七瀬ちゃんの隣にいたかった。


「……会いたかった」


 綺麗なものは、苦手。

 綺麗は、私を傷つけるものだと思い込んでいたから。


「ずっと、真白ちゃんに会いたいと思っていたの」


 だけど、初めて綺麗に触れたいと思った。

 自ら、綺麗に手を伸ばしたいと思った。


「やっと会えたね、真白ちゃん」


 瞳を滲ませた涙が姿を消す頃、夕焼け空と桜の花びらが私たちを包み込む。

 その穏やかで優しい時間に安心した私たちは、綺麗に笑う彼女に手を伸ばした。