一体誰のせいで、自分が怖い思いをさせられたと思っているのだろうか。
誰のせいで幸福恐怖症になったと思っているのだろうか。
誰のせいで。誰のせいで!
これまで母親に対して抱くことのなかった憎しみの欠片が、大きな塊となってお腹の中で膨らんでいく。母のことを愛している。でも、これ以上自分だけが一方的に愛を募らせたって、母はいつだって自分のことばかりじゃないか。
反抗なんてしたことがなかった。母が傷ついた時にはいつも、母の背中を抱き「私がいるよ」と慰めた。
本当はずっと、自分のことを抱きしめてほしかった。
「お母さん一人でもあなたを幸せにするから」って、強かな母親の言葉がほしかった。
でももう、期待するのはやめなければならない。紫陽花の口からドロドロとしたマグマのような熱い感情が漏れ出すのは、もう避けられなかった。
「お母さん。お母さんは私の何なの?」
「何って、母親に決まってるじゃないのっ」
当たり前のことを聞かないでちょうだい、という母の言葉に紫陽花はついに鋭いまなざしで母を睨んだ。
「自分の幸せだけを願って、男にふられたら娘に当たる人が、母親なの? 私が幸せになったら暴力を振るうのが母親? 私、3日前に酒井さんに襲われたのよ。お母さんが大好きだった人!」
紫陽花がそう叫ぶと、母は目を大きく見開いた。
これまでほとんど反抗しなかった紫陽花が歯向かってきたのもそうだが、「酒井に襲われた」というところで、「え?」と声を上げた。
紫陽花たちの横を通り過ぎる人たちが、何事かとこちらを二度見していく。こんな昼間に道端で親子喧嘩している紫陽花たちを、世間がどう思っているかと考えると羞恥心が全身を駆けずり回るようにして暴れだす。でも、構うものか。これ以上母の都合の良い人間になりたくはない。その一心で、紫陽花は叫び続けた。
「酒井さんは、本当はお母さんじゃなくて私を好きだったんだって……! 最初から私のことが目当てだったって!」
「嘘よ……嘘よ、そんなの!」
驚愕の事実を聞かせれた母は紫陽花の首元の襟を掴みにかかる。母が男に振られた時のいつもの行動と一緒だが、紫陽花は決してひるまなかった。
「嘘じゃない。もちろん私はあんな男のことなんか好きじゃない。あの男のせいで、お母さんは傷ついて、私も殺されそうになって。ねえ、いい加減に気づいて。お母さんは男の人なんていなくても幸せになれるんだよ。私がいるのに、私だけじゃ、ダメなの……?」
言いながらこみ上げて来た切ない想いが、涙になって溢れ出していた。母はそんな紫陽花を見て、放心状態で掴んでいた襟から手を離す。
「違うわ。そんなの違う。あの人は、あの人は……」
その場に項垂れる母親に、紫陽花はもう何も言い返せなくなった。こんなに母を想っているのに。ここまで必死に伝えているのに。どうして分かってくれないのか。どうして「紫陽花がいれば幸せだ」って言ってくれないのか。
絶望感に打ちひしがれながら、紫陽花は花束を強く抱きしめて歩きだす。母を置いて。ぐちゃぐちゃの感情に支配され、立ち上がることができなくなっている母に背を向けて。我慢して我慢して、ここまで耐えてきた自分の母との人生が、走馬灯のように頭の中を駆け巡っていた。