警察に捕まる前、あの男——酒井正敏は激しく抵抗した。

『おい、やめろっ。紫陽花、なんであんな投稿したんだよ。俺は紫陽花があんな投稿をしたのが許せなかっただけだ! 紫陽花を、紫陽花を……愛していたから。紫陽花の投稿を見て、どれだけ心が洗われていたか……! 俺が母親を愛したフリをしたのも、紫陽花に近づくためだったんだよっ。ただのファンだった。ああ、俺はファンだった。それだけなのに、なんで……』

 紫陽花は母親の恋人であったはずの酒井から聞かされた事実に、驚愕せざるを得なかった。酒井が本当は母ではなく、自分を目当てに母を愛しているふうに見せかけていたこと。最終的に母を裏切って別の女のところへいったこと。そのせいで母が荒れ狂い、自分に暴力を奮ったこと。

 紫陽花のことが好きならば、別の女のところへなんかいかなければよかったのに。いや、違う。そもそも母を騙したことが間違いだった。紫陽花は酒井のやったこと全てが許せない。
 酒井のことを考えると頭がぐらぐらと揺れて、鈍痛がする。とにかく病院へと急ごう。そう足を早めた時だった。

「紫陽花?」

 紫陽花の歩いている道路の脇に止められたタクシーから降りてきた人物を見て、紫陽花は驚いて後ずさった。その場に花束を落としてしまいそうになったが、なんとか強く抱きしめる。

「紫陽花、ああ、今までどこに行ってたの……!」

 紫陽花の母親が、ボサボサの髪の毛を掻き上げながら、紫陽花の肩を掴む。実はこの3日間、紫陽花は家に帰っていなかった。
ネットカフェを転々とし、やり過ごした。酒井から向けられた剥き出しの憎悪を受けて、母に合わせる顔もないと思ったし、爆破させたSNSのアカウントの件を母も知っているかと思うと怖かったのだ。

「お母さん。私、あの人に襲われて……」

 散々ニュースになっていたので、てっきり母も紫陽花が酒井に襲われたことを知っていると思ってそう切り出したのだが、母は「何のこと?」と目を丸くした。

「ほら、ニュース見てないの?」

「ニュース? そんなことよりあなたが帰ってこないから心配して探し回ってたのよ! 仕事だって休んだし、新しい彼とのデートだってドタキャンせざるを得なかったんだから。いい加減、お母さんを不幸にするのはやめてちょうだいっ」

 発狂したように叫ぶ母の歪んだまなざしを見て、紫陽花は目の前の堤防がガタガタと崩れていくような、恐ろしく絶望的な気持ちに襲われた。