「なんだ?」

 目の前で起きている光景を信じられない気持ちで見る。黒い帽子にサングラスとマスク、ラフなTシャツを着た身長175センチほどの男が、紫陽花の口にハンカチを当てている。反対側の手には、きらりと光る鋭利な刃物——。

「や、やめろっ」

 何が起きているのか、一番分からずに恐怖の色を浮かべている紫陽花の代わりに、璃仁は駆け出した。怖いという感覚はもちろんあったが、それ以上に目の前で今にも傷つけられそうになっている彼女を放っておくことができなかった。

 刃物の存在に気づいていない紫陽花は、ただただいきなり後ろから男に捕られて口を塞がれていることに恐怖し、ガタガタと身体を震わせた。男から離れようともがくが、所詮大人の男の力には敵わない。そのうち周りの人も怪しげな男の存在に気づき、警察に電話をかけている者もいた。でもおそらく、警察は間に合わない。この男は捨て身で紫陽花を襲っている。こんな昼間に、人目も憚らずに刃物を振りかざしているのがその証拠だった。

「璃仁くん!? ひいっ」

 紫陽花が璃仁の姿を認めたのと同時に、男の手に握られた刃物を視界に捉え、顔を引きつらせた。

「あなたは、だれ?」

 紫陽花が苦し紛れに男の正体を暴こうとする。それには答えずに、男はただ一言、

「さようなら、紫陽花」

 と冷静な声でささやいた。
 次の瞬間、璃仁は男が刃物を紫陽花の首に突きつけるのを見た。速く、速く、速く!!
 全速力で紫陽花の元に飛び込む。前にもこんなことがあった。あの時は紫陽花が包丁を握っていた。今度は知らない男だ。璃仁が飛び込んできたことに男が動揺し、顔を覆っていたサングラスとマスクがずれる。その顔を目にした璃仁は驚愕した。

 ああ、見たことがある。この人は確か、紫陽花の母親の——。

 激しい車のクラクションが脳天を突き抜けるように鳴り響く。周囲の人間のつんざくような悲鳴が、他人事のように聞こえた。脇腹に鈍い衝撃と鋭い痛みが走ったのは、璃仁が意識を失う直前のことだった。